問題があります

 

 

佐野洋子、「100万回生きたねこ」の作者だ。この本はエッセイ集で、旅の荷物に入れて一週間くらいそのままにしていたのを今日思い出して読み終えた。

時代による常識の違いなんかを除けば、私はほぼほぼ共感で読めてしまったけど、同じタイプの活字中毒じゃない人には、理解し難い部分もあるかもしれない。小さい頃ジャムの瓶の裏を「ゲル化剤、ペクチン、ビタミンC」と繰り返し読んだ口の人ならだいたいイケると思う。

文章がよすぎるから何の話しても面白くて、佐野洋子に書かせれば美空ひばりも排便もおなじように興味深くキラキラする。作家や映画の話をしている文章がいくつかあって、彼女が好きだったものを私も読みたい、見たいと思った。内田百閒やリルケを読んでマーヴリナの絵本を見たい。

読むそばから幸せになったところを引く。目を貸してもらって北軽井沢を見たと思う。

 出来上がったら、私はいたく北軽井沢が気に入った。そして、一年中住むようになった。一年中住むと冬が一番好きになった。

 そして毎日そこに居ることが、何よりも大事なことがわかった。遅い春山がグレーがかったピンクにふくらんでくる。山が笑いをこらえている様に見える。そして若芽は一晩で一センチ位も伸びることを知った時驚いた。不思議なことに毎年驚くのだ。驚きは喜びである。その喜びはタダなのだ。庭のフキノトウもタラの芽もタダなのだ。音もなく降りつもる雪をボケッと見ている陶酔も、一面の銀世界もタダなのだ。

”北軽井沢、驚き喜びそしてタダ”より

引かないけど小林秀雄賞の受賞スピーチも圧巻でお見事だったから日本語が好きなひとに読んでみて欲しい。一つの小さな小説みたいだった。

バーティミアス サマルカンドの秘宝

 

 

 

友人と幼い頃に読んでいた本の話をしていて、小中学生向けのファンタジーなのに聞いたことのないシリーズだったので悔しくなって1巻分買っておいたのを読んだ。3冊読んでやっともとの1冊分だ。イギリスのファンタジーらしく、主人公の魔術師の少年も、彼に使役されるジンも、かなり厳密に区分された階級に所属している。この世界において魔術師たちは一般市民を下級市民と見做して支配しており、この世界観がたぶん、今後この少年とジンのコンビが活躍することで覆されてゆくのではないかなと思う。本作では、少年が"意外とやる" ということがわかった、くらいのところまでだったので、2巻以降が楽しみだ。すごいネタバレなんだけど最後に出てくるなんでも食べちゃうラスボスが透明の体の持ち主でね、もののけ姫を思い出した。透明で気持ちいいものの中に閉じ込められてるような日に読んで、神々しくて透明なものはいいな、と思っていた。

 

以下雑記

友人がFF比が大きくなるのを気にしない人で、どうして私はフォロイーを増やすのをやめたのか思い返してみた。いくつか理由はあったと思うのだけれど、ある程度フォロイーを増やすと、"100パーセントフォロバします!”みたいな業者ないし絶対に分かり合えない人類にフォローされるのが煩わしかったのを思い出した。
あの、インターネット上の人のようで人でないものが纏わりついてくる感触は、おっことぬし様に猪の皮を被った唐傘連が纏わりつくのを見たときのゾワッとする感覚に似ている。猪のようで猪ではない、気持ちの悪いもの。
インターネットは簡単に人を人でなくしてしまう。仕事として誰かを騙すためにSNSをする人もいるし、なんらかの属性に対するヘイトを募らせた人の中には、およそ人間に対面していたら口にすることはないだろうような罵倒を口にしてしまう人もいる。生きている人間の気配を感じたくてインターネットを見ている人間からすると、そういう存在は海に浮かんでいるゴミのようなものなのだけど、汚い海でも飽きずに潜っていると、ときどきキラキラした小魚や美しくゆらめく海藻を見つけることがあって、全くインターネットを介した交信がないよりはいい暮らしをしているように思っている。やめた方が精神状態が良くなるような時っていうのは、結局自分が見たがっているものとか、読みたがっているものがゴミなんだと思う。インターネットだって現実世界と地続きで、ただちょっとどこにいて何を見るかが選びやすいだけなので、マシな世界を見たかったら、ゴミを選んでしまう自分をもう少しかわいがってやった方がいい。

 

夏物語

 

友人に薦められて読んだ。一時期その人と話すとやたら出産の話になるなと思っていたのだけどたぶんこの本の影響で、まぁそうなるのも無理からぬようなパンチの重い小説だった。よくネタバレを我慢していてくれたものだと思う。

小説は二部に分かれていて、第二部ではひとりの女性が(周産期医療を含めた)出産・出生とどう向き合うかというのが大きなテーマになるのだけど、結局その人がそのような形で物事に興味を持つことになる根っこの部分は、自分が育てられる側であった時分に形成されるのだということが、先に第一部を読むことによって自然と理解できる構成になっていたと思う。

この小説は650ページほどあるのだけど、173ページにあった描写を見て、もしお話の筋がどんなに悲惨なことになっても、どんなに思ってたのと違っても、私はこの小説を夢中で読み続けられるだろう、と思った。とても美しい風景なので読んでほしい。

窓の外には薄暮がひろがっていた。それは何万枚もの薄くてやわらかなレースが重なりあってたなびいているのをみあげるような夕暮れで、遠くで、近くで、無数の光が瞬いていた。その頼りない光の粒は、わたしが生まれてそして数年のあいだ暮らした小さな港町を思いださせた。

覚えていないことを思い出させてくれる、体験していない感覚を呼び覚ましてくれる文章は、現実に生きる私の脳と身体を、本当に、事実として助けてくれる。もちろんそこに描かれている感情や出来事が私を傷つけることもあるのだけど、その傷は”今ここ”から一切動けない哀れな私ではなくて、”いつかどこかで”の層に浮くことができた私に刻まれる。”今ここ”の私なしには存在し得ない、同時に”今ここ”の私を生かすためにいつも必要な私。

いい時間だった。たまたま、幼子がいる友人やこれから子を迎える予定の友人を訪ねる日の移動で読んでいて、ちょっと選択が尖りすぎたかなと心配もしたのだけれど、この本も含めてその旅が思い出になったと思う。自分でも理解しきれない自分の気持ちや行動と、共に夏を過ごす心構えができた。

不連続殺人事件

 

推理小説。文章は江戸弁でイカすし、漢字の送り仮名とかが独特なところもママで残してあって雰囲気も勢いもある。カルモチンやら青酸カリやらモルヒネやら雰囲気のある薬物がいっぱい出てくる。(雰囲気のある薬物)

 

辺鄙な田舎にある名家の邸宅で起こる殺人事件の話で、住人やら客人やら使用人やらとにかく人が多いのに相関関係図はなくて、途中出てくる見取り図と冒頭の説明パートを頼りに読んだ。

 

犯人当ての楽しみはもちろんあるのだけど、登場人物に文筆家、画家、医者みたいな専門的な職業の人が多く、それぞれかなり頓狂だったり個性的だったりするところ、台詞回しのキレがいいところが飽きない秘訣のように思う。安吾が作中の人物に言及されるメタネタもあって本当に単に娯楽小説として今面白い。たぶん凄いことなんだろうな。

 

人間の土地

 

今は新訳もあるらしいのだけど、たまたまひらいたら巻末に宮崎駿がイラスト(地図)と文章を寄せていたのに出会いを感じて買った。出会いを感じる、という言い回しは絶対におかしいけど、馴染みのある筆致で "A.ギヨメ アンデスに不時着" と書いてあるのを見て、別に良いとも悪いとも思わないでその日のラインナップに入れたのだった。

 

訳は堀口大學でさすがに古めかしいけど原文との時代的な距離は近かったわけで、私は同じ理由で古い訳が好きなことが多い。本格推理小説とか。

 

内容は彼の郵便飛行士としてのめくるめく冒険譚の数々、でありつつ、同時に命のかかった飛行(あるいは何百キロにも及ぶ歩行)から見出した世界や人間の在り方に対する思想の叙述なのだけど、面白かった。

生まれた土地で安穏と暮らして、「失敗したら死ぬ」のは道路を渡るときと階段を降りるときだけの人間には、毎度毎度まあまあの確率の死を計算に入れて飛行機に乗り続ける人間の考えることはわからないのだけど、わからないからこそ、もし自分も砂漠に墜落してあと2時間で死ぬくらい体の水分を蒸発させたら、そんなふうに感じるのかもしれない、と思えるのだ。

大人になると「もし私が〇〇したらほんとうにこうなるかも」式に物事を考えるのは難しくて、なぜなら「もし私が〇〇したらここでこうする」がある程度わかってしまうからだ。作中で何万人も死ぬような戦争映画ならその何万人の中に入ってるし、誰にも解読できなかった暗号を最初に読むのは私じゃない。私は勇気を出して告白しないし、失恋したからって海で叫ばない。

それでいうとそもそもパイロットにはならないんだけど、でも何かで遭難して人のいないところを彷徨うくらいのことは、ないか。ないけど、確かなこととして、いつか私も死ぬ。死に直面したとき、サン=テグジュペリと同じ境地に至ることはあるかもしれない。そう思えたのがうれしかった。いつか、もしかしたら。

酩酊

今現在進行形で、お酒を飲んでいる耳にBUMP OF CHICKENの「天体観測」を流し込まれている。私が小学校高学年の時にラジオで繰り返し聴いて、その後バンドサークルでコピーバンドを何度も聴いて、同い年の友人に誘われてアリーナツアーで聴いて、個人的に再生することなんてここ何年もなかったのに歌詞を大体覚えているような曲を、年下の友人は「聴いたことある」と言う。

ジェネレーションギャップがびーんみたいな話ではなくて、そういう体験を共有しているということが、如何に局地的な、瞬間的なことかに気付かされた。

誰かにとって運命的だと感じられるような共感や、共時的な体験は、数々の偶然の積み重ねの上に奇跡のように訪れるのだと思う。その瞬間を捉えて幸せのありようを胸に刻めるか、そうでないかは当人のそれまで培ってきた感性や、それに相対することになった時のコンディションによるのだけれど、むしろそういうものに頼り切って人生の舵を切ることの簡単さを思った。

ぎりぎり通い合わない血や通じ合わない思い出を、頼りない交信手段で繋いで、あらかじめ予定されていない関係性を削り出せたら、と思う。神様の奇跡がつくる光の輪からいっとき抜け出して、カーテンの影で悪さをしたい気持ちがある。今のところそんな大層な力は私には備わっていなくて、祝福よろしく同じ星のもとに生まれた人間と繋がりながら生きていくのが相応だろうとは思うのだけれど、薄い薄いつながりを目の当たりにすると、この縁に形を取らせるために必要なのは何だろう、と考えてしまうときがあるのだ。実際のところ差し出せるもの、分け与えられるものが何もないのにそれを考えるのは少し切ないことで、同時に罪悪感を惹起するのだけれど、目の前にあるように見えるキラキラした感情の流れに手を差し入れてみたい気持ちがそうさせるのかもしれない。

触れなくても見ていたいものはいくつもあって、そういうものたちの輝きを邪魔しないために、その輝きを眺められる位置を確保するために、私にできることって何があるだろうか、ということが、案外最近のテーマかもしれない。

2022.5.7

 

後藤比奈夫句集 祇園守

 

 

古本屋で買って、通読する性質のものかはかりかねて時々パラパラしていたのを、読めない漢字なんかを調べながら少ししっかりめに目を通した。

もともと花の写真を沢山撮っていた時期に、キャプションとしてその花の句をあちこちから借りてきていたのだけど、そうしているうちに何人かお気に入りの俳人ができて、後藤比奈夫はそのうちの一人だ。

大阪大学を出て、軍の研究所で働いたあと会社を二つ起こして、俳人としても活躍しながら2020年まで存命だった。ちょっと考えられないくらい有能な人だったのだと思う。私が好きになる人は短命率が高いので、この人は長生きで作品が沢山ありそうでよかった。

でもこんなふうに世界を見てそんなに長生きして、さぞ面白くて大変だっただろうな。

牡丹雪とははっきりと地にとどく

選びきれないので鮮烈だったのをひとつだけ挙げておく。高々第三句集一冊読んだだけで、何かを見ては後藤比奈夫はどう詠んでいたっけ、と検索してしまいそうな気分になって、我ながら危うい。(そんなのはほとんど恋の行いだから。)