天国飯と地獄耳

たぶんかれこれ4年積みっぱなしだった。サイズが文庫じゃなかったこと、買ったのがamazonだったためにカバーがついていなかったことなどが不利要因となってさも既読本のような顔をして棚に差さっていた。

天国飯と地獄耳

天国飯と地獄耳

Amazon

私が毎日毎日飽きもせず眺めているTwitterというSNSでは、著者の岡田育さんが毎日毎日推しの話や推しと無関係と思わせておいてやっぱりちょっと関係ある興行の話や着物や服装の話やその他あらゆる関心事についてツリーを駆使して縦横無尽に語りまくっており、なんとなくわざわざ紙で摂取しなくても岡田育成分自体は足りていたのもある。Twitterで毎日元気にしていてくれるフォロイー、ほんと助かる。

内容は隣席の盗み聞きベースのエッセイで、Twitterで書いたらヘイト高そうだしヘタに切り抜いて言及されたら可燃性もわりと高そう。しかしながらまえがきから幾重にも張られた予防線を掻い潜って本文に辿り着いた者には、著者の普段のツイートとはまた違ったオイシイ文章を読む権利が与えられる。

ニースでは、お年寄りが誰よりも幅を利かせている。市街地と海水浴場を水着のまま行ったり来たりするような若者だっているにはいるが、服屋も靴屋もシニアを目がけた品揃えが目立つし、海岸沿いの遊歩道に設置されたデッキチェアには、品の良い白髪のご老人たちが鈴なり。マジョリティ然と闊歩されると、若造は道を譲らざるを得ない。「街全体が優先席付近」という印象だ。-「紺碧海岸のレッドソックス

これは悪口ではないのだ。でも最後の一文でひやっとするし、あまりにわかりすぎる。ゾクゾクしてしまう。他のところでは、ニューヨークの人がマドリッドの地下鉄路線図を眺めてまるでNYのようだと言っているのを評して、「中華思想」というワードを出してきていた。これも別段どの国への悪口というわけではないのだ。恐ろしいことに。悪意はないオーバーキルの切れ味でサクサクトストス人間を捌きながら進んでくれるので、読む専の同じ穴の狢としては気持ちがいい。

この本の前半は著者が日本在住の頃に書かれたもの、後半はニューヨークに越してから書かれたものなのだけれど、どのエピソードにも日本や他の国の文化に対するちょっとした驚きのようなものが散りばめられている。

会計伝票を待つ間、口コミサイトで店の評判を調べてみた。ー中略ー「私にはToo Fishyで、ちょっとどうもね……」との意見もある。「Fishy」は「生臭い」という意味で、その言葉の放つネガティブさたるや、魚に対して基本好印象しかないおサカナ天国・日本の想像を絶するものがある。保守的な味覚の外国人には、アラ汁だって生ゴミの煮込みくらいに思われていてもおかしくない。-「頑張れ!日式ラーメン屋!」

こういう記述を読むと、「私はいかに日本がおサカナ天国であるか、思い知ったことがないんだよなあ」と思う。その場合日本人の中で特段魚好きな方ではないだろうとか、私も生臭すぎるものは好きではないとか、そういうことはあまり関係がない。そしてこういった”驚くべきことに驚ける”視点は、日本在住の期間に書かれたものでも発揮されているので、単に文化の相対化を移住によって行う機会があったからではないのだと思う。著者自身が、自分の居場所や行動について、時に振り返り時に背伸びして目を凝らし疑い続けるタイプの執念を何らかの理由で(おそらくは"ハジ"を歩き続ける過程で)獲得していて、当然それがニューヨークへの移住のような人生の選択につながっているし、上で書いたような小気味いい描写にも表れているように見える。

自分にとって履きやすい靴を選んで好きな場所に歩いてゆく人のお話だった。積んだ甲斐あっていい時期に読んだなと思う。

ナイン・ストーリーズ

 

 

書店で野崎孝訳を見つけたので買ったもの。

私は選ぶなら「エズミに捧ぐ」が読みやすくて印象に残ったのだけど、どのお話も話の筋は忘れても数年後にふっと思い出しそうな鮮烈な描写があったなと思う。

青空文庫にあったなら友人にも一篇から薦めやすいと思ったのだけどサリンジャーは長生きをしていて全然まだまだ入らなかった。自分が古典を読むときにはたいてい紙で買うから関係がないけど、何かの拍子に著作権の有効期限を確かめたときの「長生きはいいこと…」という気持ち、次に行く地獄のランクを下げそうなのでやめたい。

フラニーとズーイ」を読んだときに、あの小説の感触が恋しくなっても、2行では没入できないしちょっと長いしおしいな、という気持ちがあったのだけど、この短編集であれば "サリンジャー気分" を満たすためにちょっとだけ眺めるのにもいいように思う。「バナナフィッシュにうってつけの日」のシーモアがシビルの足首を押さえている間の会話なんか最高で、足首を押さえてから手を離すまでの間だけをうっとりと読み返してしまいそうな気がする。

フラニーとズーイ」は村上春樹訳で読んで、春樹訳以外も読んだ方がいいと思ったけれど、結局翻訳ものはなんとなく日本語の向こうにある英語の言い回しを想像しながら読むことになるのは変わりなかったので、あまりこだわらなくてもいいのかもしれない。春樹訳を読んだときに春樹っぽさが気になるのは、単に彼の作品を読んだことがあり文体を知っているために起こることで、今回も結局野崎孝の日本語を読んだことに変わりはないのだと感じた。

 

太陽の塔

ペンギン・ハイウェイを読んだ記憶をすっかり失くしていたことにショックを受けて積んであったのを読んだ。京都の大学5年生の懊悩の話。

 

 

私が西尾維新ファンであるのと同じように森見登美彦ファンであったなら感じないことなのかもしれないのだけど、なんか塩気が欲しいなと思った時に、うっかりたまり醤油のわりと堅いあられを食べ始めたような読み応えだった。とにかく全部の気持ち悪さを無視して最初の50ページくらいをばりごりばりと読んでしまう必要がある。完全にホモソーシャルの話、あるいは幻想としての女の話なので現実の女たるところの私はマジで暇な観光客である。あまつさえ主人公は"煙草をくゆらせ"たりする。いちいちツッコミを入れる競技なのか?売られた喧嘩は全部買った方がいいのか?そんなわけなくない?ととりあえず口の中のあられを噛み砕いていると、喉がかわいてくる。そしてもういいかげんしんどいな、と思った頃に清水のように達者な日本語が染み渡ってくるのだ。

外に出れば、こみかみがひきつるほど寒かった。顔全体の皮膚が小さくちぢんで、どうしてもこめかみ付近で足りなくなるらしい。ちょっと針でつつけばぱちんと顔がはぜてしまうのではないかという恐ろしい想像をして気味が悪くなり、その想像を克明にメールに書いて飾磨に送りつけた。

「見つけた」

私は言った。

「何を?」

高藪はびっくりしたらしい。

「自分」

「どこで?」

大英博物館に陳列してあった」

-中略-

「これぐらいのブリキの箱に入っていて、可愛いリボンがかかっていた。それはもう、感動的な出会いであったという」

小気味いい描写やセリフが幾つもある。断片になっても味わいが失われないシーンがある。

平成十八年だったとしても怒涛の口上の合間にやぶ睨みに見栄を切ることによってしかこの文体の小説は書けなかったのだと思うと、今だったらもうどうしたらいいんだろう、時代の設定は必須じゃないか、と余計な心配をした。森見登美彦の小説にはこういうかんじのが他にもあるんだろうか。

たまたま本屋にあった新潮文庫がコレだったのだけど、ファンの多くはある程度若者だった時にほぼリアルタイムで読んで、今では「懐かしい」と思う作品であるような気がするので、近作も一冊くらい読んでみようかと思った。

 

いきたくないのに出かけていく

エッセイを続けて読んだら、角田光代もイルカショーを見て泣いていた。私も泣く方なので、水族館でイルカが見られるのはやっぱりたぶん何か異常にラッキーな時代のバグなんだろうと思う、間に合ってよかった。

 

後半になればなるほどよかった、と思ったけれどそれは私の集中力の問題かもしれない。旅にまつわるエッセイが40篇弱。

二十代で何かを恒例化すると、「この先どのくらいくり返さなくてはならないのか」と、先の見えない約束にうんざりするが、五十代だと、「三十年は続かないだろう」とどこかで思っているし、さらに経験上、こういう恒例ものがぱっと終わることも知っている。ぱっと終わっても、さほどかなしくないことも知っている。だからなおのこと、恒例化はしやすいように思う。-『恒例化の謎』

最近恒例化の気配を感じることはあって、でも今のところは相手が変わっても同じようなことが出来ればいいのだけど、だんだんメンバーすら恒例になるらしい。同じようなことをしたいのは、思い出したいからでもあるし、その集中に入ることを心地よく思っているからでもある。助手席に乗ることであれ、植物を見ることであれ、ある種の感情の手順、神経の作法があって、それを順々に行うと落ち着く。同じ出汁を使って具材のバリエーションで遊ぶ安心に似ている。でもぱっと終わってもかなしくないならよかったし、なんとなくそういうものだろうという気もする。

こういうとき、私は本当に、世界のいろんなことが滞りなくまわっているのは、そのどこにも私が関わっていないからだ、と実感する。まだ雨が降っていないのに、というより、目の前にごはんや焼き海苔や鯵の干物があるのに、午後からの天候や飛行機のことを考えられる人こそが、この世界の多くのことを動かしているのだ。-『東京の島』

前段で、乗る予定だった八丈島発の飛行機が欠航だと聞いた作者は、朝ごはんを食べながら「じゃあ東京に帰るのは明日かー」と呑気に思っていたのだけど、次の瞬間には午前中に出る船で帰る段取りがされていたのだ。

 私も、仕方がないことは仕方がないで済ませたい方なので、あれこれ段取りを変更したり奥の手を使ったりするのは苦手なのだけど、ここまで完全な形で取り残されて感動する気持ちになったことは殆どなくて、なんとなく格の違いを見せつけられた感じがする。

全般に仕事の旅は仕事の旅、休暇を取れたら趣味の旅、として割り切っている感じはあるのに、仕事について勤め人のような世知辛さを感じさせることは殆ど書いていない。書いていないだけだとはわかっていても、作家の生活って実際どんなものなんだろうなあ、と興味が湧いてきて、むしろ書いていないことのほうに思いを馳せながら読み終えた。もっと紀行文に近いようなわくわくドキドキの冒険譚かと思っていたのだけど、どこにいても角田光代角田光代であることだなあ、というような、平熱と微熱を行ったり来たり、裏切らないエッセイ集だった。

何者

 

就職活動をする学生4人を中心とした群像劇。主人公である二宮拓人の一人称視点なので群像劇というと語弊があるかも知れない。

小説のオチの部分はアクロイド殺し方式だった。もしかしたら作中人物の顔が読者の方を向いているように感じさせる効果があったのかもしれないのだけど、私は光太郎以外の全員があんまり簡単に「本当に思っていること」を言ってしまうこと、それを言うことで自分や相手から失われるものについて考えているように見えないことなんかにかなり引いていて、私もまた「何者」である、みたいな素直な感興を抱けなかった。人間の醜いところや、美しいところを描き出すことにかけてこの作品は素晴らしいと思うのだけど、その発露として、「登場人物が自ら喋る」という手段がしばしば取られることが、私には 「お話だから仕方がない」の範疇のこととしてしか捉えられなかったのだ。表現手法が演劇的であった、とも言えるかもしれない。

自分の生活がインターネットに浸かっているせいか、インターネット上の発言を殊更に自意識の発露として捉えたり、リアルでは言えない本当の気持ちを書いているはずだと考えたりすることが感覚的にわからない。でもこの小説が発表された平成24年当時なら、あるいは私が就職活動をきちんとしていれば、もう少し身近に感じるところがあったかもしれないなあと思いながら読み終えた。

白い薔薇の淵まで

 

 

魂ポルノが過ぎてて一息で読んだ。この人の本は見かけたら買うので冒頭すら立ち読みしなかったのだけど、主人公が運命の相手・山野辺塁との出会いを回想する18ページは、おんなじ仕組みでいくらでも現パロを書きたいくらい美しくてベーシックで劇的だった。

作中でめちゃめちゃな女として設定されているのは売れない作家である山野辺塁なのだけど、恋で頭がおかしくなっている度合いで言えばバリキャリOLであるクーチの方だ。

「いいかげんにして」

「寝たなら寝たと言って。怒らないから」

言いながら、ぽろぽろ涙が出てきてとまらなくなった。本当はシラを切ってほしかった。本当のことなんか聞きたくなかった。

「絶対に寝てない」

「ほんとう?」

「わたしは悪い人間だけど、クーチだけは裏切らないよ」

力強い、実に誠実な響きをこめて塁は断言した。助かった。嘘でもいいから助かった。

これ塁は全然他の女と寝ているのだけど、ここでシラを切ってくれる人間のことしか私ももう信じられないんだよなと思う。全部がグチャグチャでも、嘘をついてくれなかったら死ぬ場面では嘘をついてくれる、こういうことがいつだって地獄なのだ。

それでボロボロになって別れて

はじめの二週間は、二年間のようだった。

とクーチは思う。二週間鉛を飲み込んだまま暮らすと、最初の二週間よりは息のしやすい次の週がやってくる。そのことの信じられないような寂しさを思い出していた。息ができないくらい泣いている方がマシだったのに、人間は楽になってしまう。もしあのまま立ち直るくらいなら即座に死にたかった。クーチの場合は塁から電話がかかってきて全部が台無しになる。この二人は何度も台無しになって、最後まで一緒にいられて、本当に羨ましかった。

 

そうやって一生分の恋愛を読んだあとには救いが待っている。河出文庫版のあとがきがあるのだ。作家はこの作品が発表された当時から、河出文庫に収められるまでの20年を過ごすうちに、

色恋沙汰の煩悩から解放され、心から孤独を愉しめる境地に至った

そうなのだ。私も早くそうなりたいな、と思う。でも中山可穂は小説を沢山書いて売ってお金も人脈もあるからそう思えるんだろうし、私もなんとか一人で居られるように準備をしなくちゃ、と思う。中山可穂と同世代じゃなくてよかった。

 

わるい食べもの

 

北澤平祐のイラストに惹かれて買った。洋菓子のフランセのパッケージにも描いている方で、各話に1枚ずつつけられる挿絵も、巻末に載っている著者との対談もよかった。

内容は2017年から2018年にかけて連載された食に関するエッセイ集で、短いエッセイが40篇以上収められている。

私はおいしい食べ物は好きだけど、それを食べるために電車を乗り換えたり行列に並んだりできないので、作者のような食に対する情熱はない方だと思う。でも、給食に対するうらみつらみや、「窓ぎわのトットちゃん」に救われた話など、お前は俺か、と思うエピソードはいくつもあって、私が思うようなことは千早茜がだいたい書いているの法則は今回も覆されなかった。

私には、五人以上集まると急に会話の手を抜く、という悪い癖がある。自分が話さなくても誰かが話してくれるだろう、と自堕落な計算が働く。「焼き肉と虚ろな女の子」

ね、私が書いたのかと思った。私はメンバーによっては4人くらいからサボるのだけど、気心の知れた人間にはサボってることがバレて名前を呼ばれる。自分の話って自分は知っているからそんなに美味しくないし、この話は誰々ちゃんに聞いてもらお、と思っていたことを話し終わると暇になる。

始末に負えないのはそれで相手の話をちゃんと聞いていればいいのだけど、日本酒の後味とかハイボールの氷の溶け具合とか、BGMとか隣の席の会話とかに意識を持ってかれて会話についていけなくなる時があることだ。まぁこれも友人たちが酔っ払っている時間帯なら許されるので大丈夫なのだけど、断れない会社の飲み会とか接待とかが発生する業種には全く適性がないだろうなと思う。興味のない上司の武勇伝とかなつかしJ-POP有線にすら勝てないだろう。

でもその時話した内容と、食べていたものや飲んでいた酒、気を取られていたBGMなんかがセットの思い出になっていることはよくあって、私の"食とセットのいい思い出" はおいしいものを食べたことに紐づいていないものもいくつもある。安くて薄いハイボール、冷凍のタコ焼き、のりしおのポテトチップス。

このエッセイ集も、「わるい食べもの」の名の通り、美味しいものをいかに美味しくいただいたかという話を集めたものではなかった。苦手な食べもの、その時体が必要としているもの/いないもの、記憶の中で美化される思い出の味、身体に悪いものをあえて食べる気持ち、など、生きている限り食べ続ける人間の、否応なく増え続ける食の記憶、食に対する愛憎を、読者の口にもりもり突っ込んでくる。

食欲においては著者に負けるのが明らかなせいかやや気圧されつつ完食して、今は次のシリーズも文庫で買いたいなと思っている。