ゼラニウム

 

 2002年の短編集。日本人作家の気分がどうの、と言ったわりに日本人の名前ではあるのだけど、堀江敏幸はフランスものの気持ちのときに読むから、この位置は仕方のないこと。6篇収められていて、どれもよい。(正確にいうと表題作に出てくる、生理用品の比喩は気味が悪くて受け付けなかった。)

 印象のあるのは「さくらんぼのある家」だ。梶井基次郎の「櫻の木の下には」がフランス語で引用されていて、そうと知らずに文章を辿ったときの、これは知っている文章で、しかももうほとんど忘れた外国語になってもなお鮮烈であるという驚きと、そういう強い引用を衒いなく行うことへの好感が忘れがたい。
主人公は友人夫婦の披露宴に招かれたあと、成り行き上新婦の家に泊まることになる。道中のちょっとした緊張、家についてからの奇妙な静けさ、”私”の落ち着かない気分、その後に訪れる開放。比喩表現として読めばNTRが透けるのだけど、まあそんなことはどうでもいいな。

 それぞれの作品の情景それもエッフェル塔とか水道橋とかでなく、もっと限定された部分、たとえば内装の済んでいない部屋でのディナー、ちゃぶ台で飲む紅茶などを、おそらく私は既視感として思い出すだろう。これを読んだことがある、なんでだったかな、たぶん短編集なんだけど、思い出せない。そういう薄れてはいくけれどなかったことにはならない、ざらついた記憶の連なりが書かれてあった。

 「梟の館」ではまたロラン・バルトの引用に出会った。今回は「明るい部屋」じゃなくて「日本論」だった。もうほんとうに諦めて読まないといけない。解説は大竹昭子、とても几帳面でちゃんとした、好きな解説だったから大竹昭子も読もうかな。

ある島の可能性

 

お盆が明けたら日本人作家の気分がかげって翻訳ものを読んだ。ウエルベックの3作目の長編、2005年刊行のSF小説だ。(犬が複数回死ぬので無理な人は読まないで欲しい。)

21世紀時点での現生人類は文明を失い殆ど滅んでいる。約2000年後、光合成できるように遺伝子を改変されたネオ・ヒューマンたちが、代々同一の遺伝子を受け継いで生きている。

作品は滅んだ現生人類ダニエル1の人生記と、その遺伝子を継承したネオ・ヒューマンダニエル24およびダニエル25による注釈で構成されている。ダニエル1はフランスで成功した、風刺や諧謔を評価されるコメディアンであったが、彼が書いた彼自身についての福音書を、ダニエル24と25が読みながら感想を書いているのを、読者が読む、という構造だ。作中にはネオ・ヒューマンを生み出すきっかけとなったカルト宗教が登場するが、この作品自体が聖典の形をしている。

主人公ダニエルについて言えば、ウエルベックの小説に出てくる男性にありがちなことだが、マジでペニスの話しかしない。いやこんなにペニスとセックスと性欲まみれだったか?と思い返して、まぁそこそこそうだったか…と納得をするのを繰り返していた。私が最初に読んだのが「地図と領土」であったせいで、遡って作家が若いときのものを読むと余計に鼻につくのかもしれない。全ての男性がそうかはともかく、ウエルベックの暮らしがもしこのようにペニスにドライブされていたんだとしたら、さぞかし大変だろうなと思う。

結局そう思わせる程度にはそのような男性の人生がどのように困難で虚しいか、豊かで喜びに満ちているかが描かれており、まぁウエルベックが本当に好きな人は心酔して読んでるし、ウエルベックの悪口を心置きなく言うためにウエルベックを読むタイプの人もぶちぶち言いながら読んでいることでしょうというかんじだった。私はどちらかと言えば後者で、ただウエルベックの文章からしか得られない男性性の気持ち悪さを酷薄に描き出すある種の軽妙さを嗅ぎたくて読んでいるのだし、自分が男性であることに拠って立っているのか常に女性を客体として扱うことにしているようであることを、ウエルベックなりの誠実さと見做すことでギリギリ女性蔑視への嫌悪感で本を放り出すことなく読み終えている。かなりギリギリではあるが、女性が思うようにならないこと、女性のことは彼にはわからないこと、女性には意思があることを作家がわかっていれば、男性について同じことを思っている私には今のところ十分だなと思う。ウエルベックは任意の架空女性に自分にとって都合のいいセリフを吐かせるようなマネをしない。ペニスとヴァギナに塗れた文章が下品にならないために必要なことだと思う。

最終的にダニエル25が出奔し、生きることに接近するところは感動的だった。思い出すだにため息が出る。

ひきなみ

 

 

気まぐれにハードカバーで買ってあった。人気の作家だからっていつも文庫になるのを待つのも甲斐性がないか、と思うタイミングが定期的に来る。経済力と腕力の問題で普段は文庫にせざるを得ないけど。

両親の事情で瀬戸内海の島に住む祖父母の家に預けられた小学六年生の少女、葉と、島育ちだが島民からは浮いている同級生、真以のお話。ある事件を経て二人は離れ離れになり、大人になってから再会する。少女時代が一部、葉が就職してからが二部。

島社会の描写が結構えぐくて、立ち読みしないで買う作家だったからよかったものの、中身を吟味して買うひとのだったらそれを読むのが嫌さに選んでいなかったかもしれない。以前妹とある島に遊びに行ったとき、インスタグラムに書いた感想を思い出したから自分のために貼っておく。

島には小中学校はあるが高校がなく、接客と海女は女、漁業は男、老若男女問わず全員がスクーターに乗り、島民同士はお互いに顔見知り。ここで人生を過ごすのは、もしくはここから進学や就職をきっかけに出て行くのはどんな気持ちだろうと思った。たまの息抜きで遊びに行っておいて、わたしはここから出て行かなきゃいけない人間だっただろうな、などとなかった島暮らしに思いを馳せていた。道楽もいいところ。

いつだってなかった人生を書いておいてくれるのが千早茜だとまた今回も思い知った。

葉が職場で受けたハラスメントの描写は、彼女が成人後なためかまだ私には息苦しさが少ないのだけど、全体を通して男性や男性社会から受ける抑圧が描かれており、それは結果的に葉と真以のキラッキラの、人生に一度あったらラッキーな、かけがえのない、魂の交流と同じくらい重い主題になっていると思う。それが書いてあるからキラッキラが映える側面もあるのだけれど、単に背景として扱うにはあまりにも迫り出している。
思い返してみれば「クローゼット」にも男性からの暴力をトラウマとして抱える女性が出ていた。千早茜の作品を読むときはいつも、美しい情景や、人物描写の魅力的なディテイル、クソデカ感情ブースト(語彙が急にバカのやつでごめんなさい、でもこれだから)に持ってかれてわけもわからず読み終わってしまうけど、トラウマと向き合うこと、理不尽に立ち向かうことは、彼女にとって大事なテーマなんだろう。
感情は例によっていいようにやられていて、所詮片思いマインド女なのでずっと葉フィルターかけて真以のこと見つめて泣いてた。簡単人間だからそういうバカの読み方しかできない。

シリウスの道

 

好きな作家こと藤原伊織の長編小説を読んでいた。この作品は初読だと思う、全然見覚えなかったし。

広告代理店に勤める男が主人公の、ハードボイルド。お仕事小説でもある。会社での大きな競合案件の進捗と、彼の二人の幼馴染との秘密にまつわるドラマが、リンクしながら物語は展開される。作家が長いこと電通マンだったのでおそらく広告代理店内の描写はある程度真に迫っているのだろうと信じて読んだ。この作品に限って言えば読み口は池井戸潤だしみんな読んだらいいのにな。みんな読んでるから作者が亡くなってもう随分経つのに文庫の重版がかかるのか。

ホットドッグしかつまみのないバーが登場するのだけど、読んでいる間ずっと思い出せずにこれなんだったかなと思っていたら、北上次郎が書いている解説で解決した。「テロリストのパラソル」に出てきたひとたちなのだ。懐かしいな。

私も憎いなーと思っていたところを北上次郎も誉めていたので解説から少し引く。

舞台が広告代理店という特殊な業態なので、素人にはわかりにくい専門用語が頻出するが、銀行から転職してきた戸塚と、派遣社員平野由佳を配することで、その困難を巧みに回避しているのもうまい。つまり同じチームの人間にわかるように、彼らは説明しなければならないのだ。かくて読者も、広告の世界に案内されていく。

無知な聞き手システムである。この仕組み自体は結構あからさまだからやらしく感じる人もいるかもしれないんだけど、私は普通にそれで助かったので感謝している。そしてこの「銀行から転職してきた戸塚」の成長物語も重要な縦軸になっており、あまりの化け方に感動したし、その視点だけで半分の長さの長編小説が書けそうだった。
背表紙に書いてある説明に「ビジネス・ハードボイルド」と書いてあって、まぁそうかと思ってこのエントリにもそのように書いたのだけど、この作品の一番ハードボイルドらしいところといえば主人公が無意味にモテるところかなと思う。無意味にやたらにモテるの、単にうらやましいしいい女らしき人にモテているのをみるときっとこの人にはモテる理由があるんだろうと思えていい。顔がめっちゃいいのかもしれない。
次点で主人公がまわりの人にあまり説明しないところか。説明しないで実行する、不言実行が格好いい、というのはハードボイルドの美学だ。最近だと忌避されがちなスタイルかなと思うのだけど、世の中実際のところ説明したり打ち明けたりすることでは解決しないことが沢山あって、あんなめちゃくちゃを無言でやってたおっさんも小説にはいたのにな、と時々考えると現実の自分の善良な小市民ぶりを笑えていいかもしれない。心にギャルとかヤンキーとかおっさんとかいろんなひとたちを棲まわせて暮らそうね。

 

不在

彩瀬まるの長編を読んでいた。

彩瀬まるの本とにかくずっと面白くてすごい。漫画家である主人公明日香が、死んだ父の屋敷を相続したことから始まる物語。

主人公が自身が育った屋敷を片付け始めてから、彼女は精神に変調をきたす。有り体に言えば過去(主には父)の記憶に触れることが多くなったことで幼少時のトラウマを刺激され、愛着形成の不完全さを露呈し、情緒不安定になる。成育環境から受け継いだモラルハラスメント気質を恋人にぶつけてしまう。仕事人としては有能で、骨折した母の世話もきちんとしている。そういうところがまるっと人格ぽくて感動するのだ。モラハラDV人間が常に一定に誰に対してもモラハラDV人間ではないところ。

他の登場人物も同様で、物語の成立のために必要な性質だけをピックされている感触がない。主人公レッド、頭脳派ブルー、道化の黄色、悪役ブラック(例示としても今時ない古さで申し訳ないが)に類するキャラ付けや役割分担を私は否定しないけど、それは幼いひとたちもお客にしたいコンテンツにおいて必要とされるものだ。長編小説の噛み応えを担保したいとき、人物造形に重層感を持たせることは本当に、大切なことなんだなと感じた。無論まったくありうべくもないような破綻に見えると、意図せずソシオパスやサイコパスを描出してしまうことになるから、彩瀬まるが何しろ上手なのだろう。恋人の冬馬、母、父母の離婚後父と同居していた妃美子とその娘佳蓮、祖父祖母、叔父の智、登場人物全員の人間としての存在が生々しい。

この本で一番ゾッとしたのは、明日香が叔父の智にこのような思いを抱くところ。

それなのに、私はいつしか、智さんと仲良くしたいと思っていた。智さんの言うことを信じ、肯定して、優しい家族のままでいて欲しい。

社会人としてもクリエイターとしても、私よりずっと長く生き残ってきた男性に道を示されるとホッとする。力強くて正しいものに守られている気分だ。

やりすぎのホラーだった。叔父のホームである千葉、彼が一番のびのびと大きく見える場所で少し対話しただけで、手に入らなかった家族の愛情や父性の幻影を見てしまう主人公。一番このあとどうなっちゃうんだろう、と思ったシーンだった。

そういう明日香自身の複雑な心情の流れや、ある意味淡々と、しかし事あるごとに父や明日香に関わる他者を受け入れながら進む屋敷の片付けといったかなり雑多で重量のあるものものが、象徴的に用いられるアップライトピアノや屋敷に侵入する少年といった小説らしい要素でまとめられていて、思い出すだにため息をつく素晴らしさだった。ありがたいことです。
書き始めてから構造が見えてあまりに骨だからここに全部書くのは憚られるけど、結局壮大な屋敷の片付けを通して主人公がしていることは”こんがらがったものを根気よくほぐして、別のものに変えようとする”行いであったのだし、語るに落ちている。なんてことだろうな。

日本のヤバい女の子 静かなる抵抗

 

2018年に出た無印の「日本のヤバい女の子」がとにかくめちゃくちゃ面白かったので続編も読んだ。日本の伝説や民話に登場する20人のヤバい女の子たちが紹介されている。

一つ一つのエッセイは、導入・現代語訳(本文の描写に沿ったあらすじの紹介)・解釈と解説・結びで構成されている。この最後の結びのところがおいしくて、女の子が生きた時代や社会からは自由な、一見突拍子もないような祈りがここで放出されるのだけど、それがほとんど散文詩みたいに美しい。著者が直接メッセージの相手にしているのはヤバい女の子本人だけど、それを読む私がエンパワメントされる。20人分の結びのパラグラフがあるので、もし今からこの本を読むひとがいたら、楽しみにして欲しい。引用したりしないので。
エンパワメントという言葉を使ったのでついでに書くと、”静かなる抵抗” のサブタイトルは伊達ではなくて、現代の女性たちの闘いのことも視野に入るような、力強い解説の連続でもあった。押し付けられる価値観に対するNOや、My Body My Choice であること、男性の言いなりにならなくても生きていけること、シスターフッド、そういうフェミニズム的な応援を受け取ることもできる。

すごい明るい本みたいに書いておいて私は結局魂が頑なだから、好きな人が出征してしまったので世界に抵抗して石になる佐用姫のことが好きだったのだけれど。

しかし、石はほんとうにパッシヴな存在だろうか。大抵の人間は、石で殴れば気絶するのではないか。

「石になれたらいいのに」と思うことはたぶん、私たちにも時々ある。石は人間より硬い。石は世界に翻弄されない。石は死なない。盤石な思い出は風化しない。石になれば、今のまま、悲しいままでいられる。(中略)私の大切な人を奪ったこの世界に、しこりとなって私はずっと存在し続けてやる。

-いずれもCASE STUDY13 意志とヤバい女の子 松浦佐用姫 より

”大抵の人間は、石で殴れば気絶するのではないか” の一文はページを繰った最初に印刷されていて、あんまりパンチラインだったので笑ってしまった。この先、まぁ最悪石で殴れば気絶するしな、と思って物事をやり過ごしかねない。
生きて死んで、それを無かったことにしない、というのが抵抗の一つの在り方なのではないか、という視点はこの本の何箇所かに出てくる。もう一箇所だけ引く。

善悪に苦しみ、足を引きずって、山姥が山を歩きまわる。日々が過ぎ、「あの頃」がだんだん現実味を失ってくる。あれは本当にあったことなのだろうか。(中略)葉の影が風に揺れている。山は厳しくうつくしい。うつくしいけれど、あの頃が確かにあったと保証してくれる者はここには誰もいない。自分の輪郭が透けていくような不安を抱いた山姥が、百万と邂逅したとすれば。

-CASE STUDY20 証明とヤバい女の子 山姥と百万山姥(能 山姥)

あまり長く引き書きするとよくないと思ってエッセイのキモの文脈は直接書いていないのだけれど、順々に読んできて、”葉の影が風に揺れている。山は厳しくうつくしい。” で泣いた。音読したら多分何回でもここで泣く。”葉の影が風に揺れている。山は厳しくうつくしい。”

私の場合はこうだったけど、読む人の抱えている抵抗によって全然違う場所が響くだろうと思う。成仏したい人、お焚き上げされたい人、まだ怒っている人、これからも怒り続ける予定の人、みんなに読んで欲しい。

江戸川乱歩傑作選

 

夏なので推理小説怪奇小説も収録されている本を読んだ。最初の二篇、「二銭銅貨」と「D坂の殺人事件」のかんじのよさからすると最後の二篇、「鏡地獄」「芋虫」のグロテスクさ、気味の悪さがすごいので、立ち読みを最初からする人か終わりからする人かで期待する内容が違ってしまいそう。今さらこの大作家の文庫を立ち読みしてから買うかどうか決める人はいないかもしれないけど。(個人的にはいて欲しい、ピュアな厨二病の中学生。中学生は青空文庫で読むか、乱歩はもう読めるもんな。)

「芋虫」、キーワード的な連想で谷崎の「春琴抄」とどちらが早いのか気になって確認したのだけどこちらが先だった。「芋虫」が1929年、「春琴抄」が1933年で、谷崎は「芋虫」を読んだことがあっただろうか、と思う。「春琴抄」がもの狂おしい愛情の小説であるのはいうまでもないけれど、「芋虫」にも凄まじい情があって、単におどろおどろしい残酷物語として読むにはもったいないような作品だった。

推理小説のような大衆の娯楽として消費されてきたものにも参照のリレー、リテラシーの醸成は確かにあって、読めば読んだだけわかることが増える。特に乱歩は海外から日本に推理小説のお作法を紹介したようなところがおそらくあって、そういう意味でも、延々"元ネタ"を読める楽しみがあるなあと思う。