約束の地

 

 

70年代のハードボイルドミステリ。探偵スペンサーが、家出した妻を探して欲しいという依頼を受けるところから始まる。

お話自体は面白いだけなんだけど、妻が拾われるのがウーマン・リヴ活動家の女性ふたり、というのが味付けになっていて、かなり興味深かった。そのことについてスペンサーの考えが記されていて、当時の男性としては偏見などのない見方だったので、フェミニストの皆さんが読んでも即嘔吐はしないんじゃないかと思う。ただ、作劇の都合上、その思想が今この場では役に立たないということが都度確認される。もちろん、このシリーズではスペンサーの経験に基づくポリシーや哲学に関係のない思想は、前後左右に関わらず捨象されるので、彼が特にフェミニズムを嫌っているわけではない。しかし、このシリーズ内では、そもそも思想や理想、社会運動といったものの価値が、策を巡らせる機知や、命を守る腕力、それを支える行動指針に比して低く見積もられているのだと思う。それはふつうにいくと、生き残る能力や即時の行動力の低い個体の価値が下がる考えだと思うので、己のマチズモを自嘲する以上の折り合いの付け方を読んでみたかったような気もする。強いものが弱いものを守ればいい、と考えていないかどうか。

たびたび彼が読書をすることがわかる描写があるのだけど、この時代は本を読むことで一人前のフェミニストが誕生する時代ではないだろう。でも作中の描写のみだと、スペンサーは自分の中にある偏見や、今までにした差別的行いについて、なんの屈託もなく手放したかのように見え、そいつはちょっと無理だ、と感じた。もしかしたら自分が何を差別したか、彼が気づく描写がある作品は他にあるのかもしれない。

まぁそもそも大衆向け娯楽小説でこのモチーフを取り上げられることがすごいし、"あの女性たちと話すには自分では間に合わないから恋人のスーザンにその場にいて欲しい"といった尊重の仕方があるようだったので、むしろ他の思想より特別に配慮された扱いのように思った。白人男性がこれを書く勇気を尊敬する。

先に書いたことと無関係ではないはずのことだけど、私がこのシリーズを時々読むのは、スペンサーが "普通" であることや、沢山の人に評価されることには興味がないが、自分や自分の生活をコントロールすることには異常な執着があり、それなのにスーザンや女のこととなると感情を制御するのにずいぶん苦労しているのが面白いからかもしれない。

自分で料理をし、外食でもよく食べよく飲む主人公の食生活の描写自体はシンプルに美味しそうでかなり好きだけど、お酒の量など含めそのコントロール欲が根底にあり、付き合ったらうるさそうな男だなと思う。

コンジュジ

 

 

単行本で読んだけど今は文庫が出ているみたい。文庫だとあとがきがあったりするのかな。

児童性虐待の描写があるのでトラウマのあるひととかは読まない方がいいと思う。

 

小説はすごくよかった。1980年代生まれの主人公せれなは、11歳のとき、70年代のロックバンドのボーカル、リアンに恋をする。彼女は没後10年の特集番組で姿を知ったそのスターと、健やかなるときも実父に性的虐待を受けるときも、イマジナリーフレンドのように一緒にいることになる。父親の元恋人に父親が殺されたあとも、自分の人生の記憶を補完するもうひとつの世界として、彼をとりまくあのころの世界が機能し続けている。

父親を殺したベラさんというブラジル人の女性が実力者で、どうしてこんな気持ちの悪い男といっときでも付き合うことになったのかはわからないけど、お金の問題だったのかもしれない。たぶん娘であるせれなへの性的虐待を知った上で殺したのだと思う。

高校を中退し、18で一人暮らしを始めたせれなの人生には特に暖かい救いの手のようなものはなくて、ただフラッシュバックや解離の症状と折り合いをつけて過ごすことが続いてゆくらしいのだけど、抜け落ちている記憶と向き合う作業が、彼女自身が作り上げたリアンとの世界と現実世界のあわいで行われることが、どうやら彼女にとってはセラピーの一種であるらしいと思う。本来なら医療ケアの対象になるだろう状態なのだけど、どんなに病気らしい人であったとしても、その人全体が病気になってしまうわけではなく、病気なら病気なりの内的な世界というものがあり、それは生きるために必要な働きを得ようと絶えず蠢いているのだと感じた。

彼女は父の命日に、リアンの棺に入る夢を見るが、その死は生きるために必要なものだ。自分の大切な部分を安らかに休ませること、侵されない領域に隠すこと、大切に弔うこと。ラストシーンを私はそのようなイメージで読んだ。このためなら毎日死んで毎日棺から出勤してもいい。

 

追伸:全体にとにかく重たくて悲しいはずなのだけど、リアンとザ・カップスの側の描写は、私たちが生きた世界のいくつかのバンドを掛け合わせたような、ある種テンプレ的なストーリーで、そこのメタを感じておくことで多少 "フィクションを読んでいる" 気分を保ちやすくなったように思う。せれなにとってだけでなく読者にとってもありがたい逃避先だった。

映画館がはねて

 

 

古本のリンクしか見つけられなかった。1989年に出た本だから仕方がないか。

寅さんシリーズで有名な山田洋次監督があちこちに連載したエッセイやコラムを集めた本。同じエピソードが違う切り取り方で2回登場したりして、忙しい人はこうやって書くのか、なるほどなあと思ったりした。

百貨店の店員がくれた休憩中のバッジをつけて山田洋次とのお茶に現れる渥美清のエピソードはよかった。

「今、何をしてらっしゃるんですか」と尋ねたので、お正月の寅さんの撮影が済んで、現在休憩中です、と答えたところ、彼女は、「じゃ、これつけてあげましょう」

と言って自分の胸につけてあった『休憩中』と書いたバッジをはずし、渥美さんの胸につけてくれたそうである。-中略-

「その時からずーっと、このバッジつけて歩いてるんですよ。何しろ私は休憩中なんですから」

小さな恋の話として読んだけど、店員さんが素人なのに渥美清と1カット共演して負けていないのがすごい、国民的スター相手にそんなことをやってのける店員、あまりいないだろうと思う。

そのほかも時代の雰囲気が伝わってくるエピソードがたくさん読める。映画人について書いているものも多いので、映画が好きな人なら寅さんをたいして見てなくても興味深いんじゃないかなと思う。

そういえばこの本に、寅さんシリーズはマンネリを心配しだしたころ、8作目が同じ日に封切られたゴッドファーザーよりヒットして、作るのをやめられなくなった旨書いてあったので、気になってマドンナを調べたら池内淳子だった。なんとも言えない納得があって、寅さんはいつもリビングで流れているのをチラチラ見るくらいだったけど、今度ひとりで見てみようかと思った。

百鬼園随筆

 

 

佐野洋子が好きだと書いていたから読んだ。たしかに佐野洋子が好きな人は内田百閒も好きかもしれない。

さすがに刊行が昭和8年で、大抵の差別とそれに用いる用語がまだ生き生きとしているから耐性のない人は読んでもつまらないと思う。その代わり著者が懇意にしていた盲目の作曲家、宮城道雄が、見える人間を指して "目明き" と綺麗に有徴性を付与している会話なんかがありありと書いてあって、言葉として簡単なものほど、便利に使われて差別用語になってしまったのだなと思う。今は "盲人(盲者?)" と "晴眼者" になるのかな。弱視者を含む場合は "視覚障がい者" か。古い言葉から順に使えなくなるのかもしれない。

読み終わってからもう一月経って、印象に残っているのは漱石が彼の地元に公演に来たときのことを書いたエッセイと、高利貸しのことを書いたいくつかの作品だ。高利貸しの方は何人か出てくるのだけど、おっかなくて、よくこんな人たちからお金を借りて、借り続けて生きていられたなと思う。職があったから恐ろしい目には合わなかったのかもしれないけれど、毎月毎月暮らすお金が足りないらしいわりに、百閒自身はそうびくびく節約している様にも見えない。お金のことに限らず、とにかく物おじしない。人が見ないようにしてほしいようなときにもまじまじと覗き込んでくるような好奇心の強さ、身についた観察がある。まぁそうでもなければ古典になるような随筆なんて書けないのだろうけど、付き合った人たちは大変だっただろうな。

飛行機の話や電車の話もよかったですね、弔問に行く話も。

 

表題作は2014年の芥川賞なのだそうだ。芥川賞が発表される号の文藝春秋は父がたいてい買っていたのでそれで読んだ作品もあるのだけど、その習慣が失われたあとの作品のような気がする。どちらにしても2014年だと父のものに勝手に触ることはなかったかもしれない。

小山田浩子を読んだのは初めてだった。芥川賞に選ばれているのだから純文学に分類されるんだろうと思うが、夫の転勤に伴い義実家の隣に引っ越した女性が主人公の「穴」も、二組の夫婦の交流を一方の夫視点で描く「いたちなく」「ゆきの宿」も、書いていないことを想像させるセリフや描写が多く、半分ミステリのような頭の使い方をして読んだ。

「穴」を読み進めていて、途中で出てくる子どもたちがはっきりと広島弁の言い回しを使ったところでやっと広島の夏の話か、と気がついた。それくらい訛らない人物が多くて、描かれる風物が地方のものであるのに対して言葉が標準語だと、なにか古い映画を見ているような気持ちになるのだと分かった。作中に方言を喋るひとが一人もいなければ、フィクションの決め事として何にも思わないかもしれないが、方言がない世界ではないらしい。しかも、その広島弁を喋る子どもたちというのは主人公にしか見えていない。何か不気味で、丁寧な女言葉で喋る女、「〇〇かい」「参ったな」のような言葉で話す男、そういうざらついた雰囲気にのまれているうちにずいぶん恐ろしい話を読まされた気がする。ひとつ前の彩瀬まるに続いて、幻想的に描かれる夢やらなにやらを(ときにはメタファーとして)読んで味わう恐怖ももちろん鮮やかだが、それらを含んだ生活、続いていく人生の方からは「あるある」の匂いがするのがより恐ろしい。人間はボケた義祖父を見なかったことにするし、死んだ兄を存在ごと隠すくらいのことはやる。悪意や決意ではなく、仕方のないこと、あるいはなりゆきとして、平々凡々の人間も、大きな秘密をそのままにする。ほかにしようのないなりゆきなんてよくあることだけど、読んでみるとこんなに重たく感じるものなんだな。

短編としてすきだったのは「いたちなく」で、落語みたいに綺麗なオチがついている。わかりよくキマっていて、そういう短編をすきだなと思った。

さいはての家

 

彩瀬まるの新しい文庫が出ていた。古い貸家に住むひとたちにまつわる短編が5編。各話に繋がりはあるけど独立して読める。

初出がもっとも遅い「かざあな」でも2019年11月号のすばるなので、完全にコロナ禍の前に書かれた小説だ。近い過去の方が違いがわかりやすいのか、

ワンセグチューナーをつけたパソコンで明日の天気予報を見ていた満は、少し笑った。

「ままごと」

などという表現にすでに時代を感じる。

彩瀬まるは文章がうますぎるので、書かれたものとして読んでしまうと、学校もろくに出てないチンピラがこんなゆたかな比喩表現を使って物事を描写するわけがない、という没入失敗現象が起こってしまう。一人称の小説という表現様式においては、あくまで登場人物の脳内を言葉に起こすとつまりこういうことです、というテイで読み進めることが大切だ。

すでに投げ捨てた人生なら、この先の日々は余分というか、楽しみこそすれ惜しむようなものではないのかもしれない。

「ゆすらうめ」

「ゆすらうめ」に出てくる主人公のチンピラはこのようなつもりでいたのに、最後には大切な人を守りたくてさいはての家をあとにする。他のヤクザに追われての旅立ちでいかにもこのあと死にそうなんだけど、きっと「死にたくなかった」「帰りたかった」と死の間際に本気で思えるということは、この人の人生における幸せだろうと思う。

鱗を光らせた赤白黒の艶やかな地獄が過ぎた頃、影法師は穏やかな声で続けた。

「お前がうたたねをしている姿を見たことがある。うっすらと暖かい日でね。-中略- 障子戸のすき間から伸びた日差しが、お前の足首を染めていた。こつんと突き出たくるぶしの骨だとか、皮膚からほんのり透ける桃色だとか、くぼみに指を当てれば血管が生真面目に脈打っているのだろうなとか、そんなことがたまらなく嬉しく思えて、いいものを見た、って羊羹をぶら下げたままで涙が出た。そんな一日があったんだ」

庭に、すうっと心地よい風が抜けた。

「ひかり」

日本人作家の読みやすい小説を読んでいるつもりだったのに、ここを読んだときは中南米魔術的リアリズム小説と同じ感触がした。この文章は年老いた新興宗教の教祖が主人公の「ひかり」のほとんどオチに当たる部分にあるのだけど、ここに行き着くまでを読んでくると、"庭に、すうっと心地よい風が抜けた。" のところですごく気持ちよくなれる。それによく考えると、呪いが解けて自分(名前)を取り戻すのはファンタジーの王道展開だ。彩瀬まるが書いたのを読めてよかったなと思う。

5話すべてに何か恐ろしいものが出てくる。主人公の狂気、希死念慮、ストーカー気質の恋人、トラウマ、思い返すとなんでもある。それら全てが本当に恐ろしく、この作品はファンタジーであると同時にホラーでもあると思う。

私が一番怖かったのは「はねつき」だ。駆け落ちしてきた主人公の若い女と歳上の妻子持ちの話で、女が恋愛ファンタジーから覚める過程が詳らかにされている。女はたぶん一緒に逃げてきたことも、この男と別れることも後悔しないし、今度は脳裏に真っ白を思い浮かべてやりすごすこともしないと思う。

どの話も逃げてきた人たちの物語なのだけど、いつもきちんと一時避難先でなく再出発した現実の側に希望を見せて終わっていて、生と対峙する強さを感じた。自分にないものが眩しいのはいつものことだけど、好きな作家にやられると堪える。

ここは、おしまいの地

こだまさんの本を読んだ。

 

 

こんな表紙なのか。「夫のちんぽが入らない」以来だと思う。

単に自分よりこだまさんのが不幸っぽいので元気が出る部分もあるし、逆にこだまさんはこんなに大変なのにこんなに面白いエッセイが書けて、それにひきかえ私ときたら何を生み出すこともなく無為な人生を…となる部分もある。

以降続編らしきエッセイも出ているようなので、また怖いもの見たさで読もうと思う。

私が好きなのは、骨が消えてしまう病気の治療で首に埋め込まれた3本のボルトが小さな鳥居に見えていたり、医者が自分の骨について「生えてくる可能性」を語るようになったりして、自分のことをなにか珍しいことがよく起こる、有り難い存在のように思っているこだまさんだ。

骨が消えてしまっている首の画像を、医者と一緒に見たときのこだまさんの観察のところを引く。

骨は南北に伸びる二つの島のようにも見えた。上にあるのが菱形の小島、下には細長く伸びた島。北海道と本州をつなぐ青函トンネルが消滅したような状態だ。画面には暗い津軽海峡が映し出されていた。

私の中の欠けたバナナ、海峡、骨壷泥棒。わからないことだらけだ。

電車の中で読むのは危ないと思って、家でALGSを観戦する合間に読む失礼スタイルだったのだけど、たいして集中もしてないのにこういう文章を真顔でぶちこまれると笑ってしまう、面白いことばっかり言うのをやめてほしい。

こだまさんは、すごく大変な目にあってもどこか他人ごとみたいな神様の目がついていて、そのせいでおもしろおかしくなってしまっている。だからそういう「人ではない(神様に近い)」見解は私には大当たりに思えるのに、本人は自分の神性にあんまり自覚的じゃないようなのが面白い。

とはいっても実際かなり苦労している神様で、大抵の人は同情できると思うので、今状況が不幸な人にも安心してオススメできる。