勇気凛々よって言っても疑われるのかな

興味津々よ!って言うと絶対に信じてもらえない、まぁ仕方ない。

今わりと面白い本を読みかけているのだけど、分厚いハードカバーだから持ち歩けなくて読書が止まっている。本を読むのにも筋肉と堪え性が必要。まぁ家で読めばいいんだけど家にいても見たいものとかやりたいこととか沢山あって、前は本読む以外にしたいことなんてなかったのにな。

クリミナル・マインドも見たいしツイステもやりたいしゼルダもやりたいしスプラトゥーン2もやりたいしジェーン・スー堀井美香ポッドキャストを聴きながら爪を磨き酸性とアルカリ性と中性の洗剤を使い分けて風呂をキレイにし部屋を片付けたい。

ツイステの小話も書きたい。小話を書くのと小説を読むのは似ていて、プロットを立てるようなことをすると書く方がしんどいと思うのだけど、誰かがつくってくれた設定で遊んでいるのは、自由帳に描くお絵描きみたいに書けるので楽しい方が勝つ。でも今は一旦ね、一旦イベントをクリアしなくちゃいけないし、リリア・ヴァンルージュの育て切れていない分のパーソナルストーリーを読んでしまわないと、それもままならないので。

そういえば以前自分で書きかけたオリジナルのお話もどきもあって、でもそれはあんまりにも自分のことだったから読んでいて楽しくなくて途中でやめてある。別に嘘でいいし取材が充分でなくていいから自分が読みたいものを書きたいな。原作がなくても。知ってることを細かく書いたもの、日記だと思えば面白いのかも知れないけど。

ミュージックフェアで森山良子が「さとうきび畑」を歌っていた。多くの人にとってWWⅡなんてこれくらいの解像度だったのかな、いやそれぞれの人に戦争の記憶があって、こんなぼんやりさせられたら逆に腹立ったりしないんかな、と思いながら「戦争に行ったまま父が帰ってこなかった家も悲しいけどさ、帰って来た家だって大変よね。家の中に人殺しかもしれない人がいて。」と言ったら母がえっ、という顔をした。まぁそれはそう、言葉選びが不穏な娘を持ってかわいそう。「それが個人の罪だとはもちろん思わないけど、まともなお父さんはそのことについて家の中の誰にも話せないだろうし、仮に自分が直接手を下すようなことがなくても、自分の仲間が殺されたのを見たひとだっていたろうし、そういう景色とか記憶を抱えてくのは、本人も家族も多分大変よね」と言い足して事なきを得た。

アメリカは9.11以降の戦争で戦死者を7,000人くらい出しているけど、帰ってから自殺した人が推計で3万人いるという記事を最近読んだ。アメリカ人の平均的な自殺率より有意に高い割合で人が死んでいる。70余年前の話について今苦しんでる95upのおじいちゃんじゃなくて、今も苦しんでる現役の社会人がいるんだろう。殉職する同僚がいる一方、自分の行動が人の命を奪うきっかけになっている、あるいは本当に人を殺さざるを得ないような場所から、周囲の人が(基本的には)健康で文化的な最低限度の生活を特に死ぬ心配をしないで送っているような場所に帰ってきて、努めてふつうの顔をするのってどんな気持ちだろうと思う。考えてみるのすら怖い。

クリミナル・マインド見てたら元軍人の犯人とか、被害者の父が戦争で死んでるとか全然出てくる。なんか日本の一般市民が考える戦争とアメリカの一般市民が考える戦争って全然違うんだろうな、ということをもともと思っていたのが、「さとうきび畑」で口をついたように思う。

SDGsの17のゴールの一覧をたまたま見たら、かなり難しいけどみんな出来るならそうしたいよねって感じのいいことが書いてあった。でも差し当たっての期限が2030年までで、とりあえずそれは間に合わなそう。それであーでも普段時間をあまり割かないことばかりだと気付いたので、関係ありそうな本を不真面目に17冊選んで、「あとで買う」にした。「あとで買う」も渋滞してるけどまぁ今選んだ新書なんかは早い方がいいので割り込ませて買うでしょう。

17項目の中にはリレーションシップでよくしましょうみたいな項目があって、日本人だと日米安保と環太平洋的なのが頭に浮かぶな、と思ってそういう本を選んだ。戦後のことはわかっておかなくちゃという気持ちがあるのかもしれない。

17のいいこと、発展途上国(特にアフリカ大陸の国々とか)には差し当たって好き勝手に開発させてあげる必要があるように私には読めたので、日本が先進国ぶりたかったら、それらの地域で起きる公害とか自然破壊とかを防ぐ手段を提供したり、発生する二酸化炭素分をひっかぶってあげたりしないといけないんじゃないかな、と思う。でも現実としては日本は既にいちばんの先進国じゃないし、少子高齢化でどんどん遅れてゆくから、あまり期待はできない。ポルトガルやスペインくらいの気持ちでがんばりたい、諸行は無常だから。(失礼なことを言った、かつて世界全部がスペインかポルトガルだった頃からの比較の話だから怒らないでほしい)

ここ2、3日は天気が安定していて気分も悪くない。明日以降台風が近づいてくると寝こける日とそれに続くここはどこ私は誰DAYが発生するのかも知れない。うまく週末にハマってくれるといい。

緊急事態宣言が明けるのと年末に向かうのが同時って感じであんまガチャガチャしたくない。魚が顔を向ける方向をほとんど自動的に決めるみたいに行いたい。皆のものには明るい顔をしてほしい。私は相変わらず真白く光る曇りと穏やかな水面のことを考えているけど、明るい顔もそれなりにするし、安心してねと思う。

敗戦日記

 

 

昭和一桁生まれの知人に若いころ何を読んでいたかと聞いたら、ドストエフスキーなどの海外の作家、日本だと白樺派高見順を読んでいた時もありました。と言われて全く知らなかったので読んだ。

感情の激するポイントが生々しく、昔々あるところに、というような穏やかな心持ちでは読めなかった。私自身の鬱々とした気分、貧しさ、浅ましさ、そういうものを、終戦の年の高見順の記述に、重ねて読まないではいられなかった。

ちょうど一年分なので、読んでいる途中で8月22日、23日と、76年前の今日を追い越す瞬間があったのだけど、今頃は新聞が戦争終結を敗戦というようになって、広島長崎の被害が詳報されて、高見順は日本文学報国会へお給金をもらいに行ったり、島木健作の葬儀に参列したりしていたらしい。作中では筆者の直接の知人がバタバタ死ぬし、悲惨であったり醜悪であったりする報せが次々入るのだけど、訃報を悲しむことはあっても、悪い知らせにいちいち全力で驚いたり怒ったりするのはもはや難しい、という様子で、人間が弱らされている、と思う。

世の中が自分にとって生きにくいとき、どうしても売り飛ばさずに守るべきはなにか、どのようにして守るのか、いつでも考えておかなければならない。

全然知らないでいたが著書を見ると色恋のことも書く人らしく、後年愛人との間に子を設けて、死の間際に養子に入れたりもしているので、ロクでもない小説があるならそれも読んでみたいなあと思う。うまく羽化できなかった蝉を拾ってやるところが優しかった。

 

イルカと墜落

 

少し前に古本屋で買ってあって、積読の中から夏らしいのを選んだら国文拓ディレクターと沢木耕太郎によるリアルジャングルクルーズだった。なので私の頭の中の彼らは概ね映画『ジャングル・クルーズ』(2021,Disney)風味の景色の中を進んでゆくことになる。(余談だが今年の夏はこの映画に旅行したい欲をだいぶ埋めてもらった。エンタメ愛勢は見て下さい。)

以前も書いたけれど何を食べ、何を眺めたか、ごく具体的に書いてある。記録というのは贅沢だなと思う。そのままでは時と共に曖昧になるだろう、覚えていないことを残念がることすらできないだろうような事柄が、至極簡潔に、最低限の即時的な意味づけだけを施されて記されている。それに、アマゾン川を遡ってる間に、景色が変わらないからという理由で退屈するなんて、『ジャングル・クルーズ』を見てもわからない。でも確かに南米にカバはいないし、ピンクのイルカは本当にいるとわかった。作者の思い描いたように物事が進まないのが、ノンフィクションのよいところだなと思う。

所収のイルカ記、墜落記それぞれにおけるアマゾン行のうち、後者の往路中に、2001年9.11アメリ同時多発テロが起きる。奇しくもこの本を読み終わったのはアフガニスタンの首都カブールがターリバーンに掌握された日の夜で、アルカイダによるテロ後、カルザイ政権に指導権を譲ることとなったターリバーンは、20年の時を経てアフガニスタンにおける権力を完全かそれ以上に取り戻した。さらに20年後はどうなっているだろうか。

世界に走る緊張と、飛ばない飛行機にもめげずアマゾンにたどり着いたのち自ら墜落してしまう沢木さん、文明人の世界の出来事とは関係のないところで生きるイゾラドの人々。私がテレビに繰り返し映し出される衝撃的な映像をただ呆然と実家のリビングで見ていたとき、沢木耕太郎バンクーバーのホテルに滞在して役所広司にメールして「沢木さんの行くところ事件ありですね」と言われていたのだ。(カムチャッカの若者と柱頭にウィンクのやつです)

この取材の成果として制作されたNHKスペシャル『隔絶された人々 イゾラド』を見たいなぁと思っている。もともと国分ディレクターのロングインタビューをwebで読んでいて、近作の『アウラ 未知のイゾラド 最後のひとり』には強く惹かれていたのだ。遡ったところに沢木耕太郎がいたなんて。オンデマンドで買うことになるのかな。

私は別に生きている間にアマゾンに行きたいと思ったことはないけど、家から出るのにさえ理由が必要な時期に、差し当たって家や映画館の中で旅をする習慣は気に入りつつある。

この本の表紙に使われている絵は、取材旅行中に沢木さんが出会ったものなのだけど、そのエピソードは、ある意味で沢木耕太郎のお仕事である旅に設えられた一つの唐突な窓のようで、私は旅という体験の忘れられない感触を味わった。旅には、人との出会いと持って帰れるお土産、それに持って帰れない景色がつきものなのだ。

どこへも行かない私には、iPhone以外にもいくつもの窓が必要なのだと思う。あちらからこちらに、風が抜けるように入力して出力する。それでやっと少しはバランスが取れる。

小春日和

 

主人公は大学に入りたての女の子、桃子。一風変わった友人花子と出会い…たいして何が起こるわけでもないのだけど、ある種のシスターフッドの話で、この目白四部作は読もうと思う。この頃にビッグボックスがもうあったことに驚いた。ギリまだないくらいかと思った。

文章が時代を感じるケーハク体なのでアレルギー出る人は読めないけど、それを愛せるひとなら大丈夫。刊行は1988年で、生まれる前の本は安吾ぶりだ。気分としてはユーミンやサザンを聞くのに近い。まぁこの本に出てくるのは古内東子とかなわけだが、ちょっとスノッブな、あるいはオリーブ少女的な引用が沢山、若干教養主義のきらいがあるかもしれない。教養主義は基本的には悪いことではないと思うけど。(ここでまたしてもロラン・バルト『明るい部屋』の引用を読むとは思わなかった、もういっそ引用だけで全部読めないだろうか。)

主人公の叔母は作家で、作中にいくつか作品が挿入されている。作中作にはなるのだろうが、忽然と全文が現れるので、ほんとうに、差し挟まれているかんじだ。そのうちのひとつから、もし読者だったらこの人の本をもう一冊買うかもなと思ったところを引いておく。

「ひとはいつも愛するものについて語ることに失敗する」としても、だからこそ、私は誰かが何かを愛してしまうことと、それを語ることに失敗することへの物悲しい歓びに共感するために、バルトの本を(バルトの本も)開いてみるのだ。なにしろ、私たちは、そもそも本というものを記憶の歓びのために読むのではないか。

まず恒例のバルト読むかーをやって、それから、記憶の歓び、について考える。本の中に出てくる、自分の知っているもの(ビッグボックスとかね)を読んでそれを知っている、と思うのは浅はかなことではあるけれど、一方でこれにもう一度会えた、あるいはこの人もこれを知っている、この人が(私のために!)書いてくれている、という素朴な喜びをもたらすことでもある。

記憶よりも純粋な形で取り出せる歓びがあるか、という問題もあって、まだ何にもわからない中をおよいでゆくような桃子と、疲れや諦めを知っているおばさんではおそらく意見が違うだろうと思う。そういう世代や背景の違う女性たちが何人も描かれる中で、じゃあ私は、とつい思うような本だった。じゃあ私は、と思うのは結構楽しかった。

美少年M

 

順番に読んできて、この作品だけは単体では読めないと感じた。

本編で女子校への潜入調査に取り組むのが主人公の瞳島眉美だけで、あとの美少年たちは"仮想"としてしか登場しない。出版は2018年なので書かれたのは感染症が流行る前なのだけど、実際にそばにいなくても自分にはいつだって仲間がいる、仲間たちの頭の中にも自分がいるのだ、という気づきのお話なので、今読むと共感も懐疑もあってよかった。物語は相変わらずクライマックスに向かって突き進んでおり、次の巻がもう手元にあるのであまり間をおかずに読むかもしれない。

面白かったのは巻末の"札槻嘘の禁じられた遊び" という読み切りで、何が面白かったって推理?が当たったから面白かった。当たる範囲の当てずっぽうなので、みんな当ててみてネと思う。

夏の日記

今日も朝起きたときはなんのために、と思った。

どうして目が覚めるのだろうね。好きなひとたちのSNSを順番に眺めて、もう一度眠った。雨が降っていたように思う。

少し前に買った薄皮クリームパンが冷蔵庫で冷やしてあって、最後のひとつを食べた。母が作った茄子と油揚の味噌汁があったから白米とベーコンを入れておじやにして、チーズと黒胡椒で食べた。とろろ昆布も足した。そのあとプラムを2つ切ってヨーグルトをかけて食べた。最近プラムの味だけがいいなと思ってヨーグルトにはグラニュー糖を少し足すだけにしていたのに、寝ぼけていて蜂蜜をかけてしまった。蜂蜜は美味しいのだけどプラムの酸味をぼやけさせてしまう。

もう一度眠って起きたら15時をすぎていたように思う。レトルトのハヤシルーをゆで卵、エリンギと玉ねぎをバターで炒めたの、納豆と白米にかけて食べた。悪食。歯応えのあるものが嫌で、全部をドロドロにして食べている。噛むのはきちんと数を数えて噛んでいて、柔らかくて湿り気があるものならなんでもいい。

ツイステッドワンダーランドの二次創作を読んでいて、何かに執着するリーチ兄弟はやっぱりいいなと思う。リーチ兄弟じゃなくてもよくて、何かに執着して独占したいと思っている生き物がいいのかもしれない。現実には執着されて独占されていたとして、それを幸せだとは思えないことが往々にしてあるのは知っていて、それでも懐かしい。大抵の場合どうしてそんなことになったのかわからなくて、そのわからなさは好もしい。

Twitterで深川さんがまほやくのフィガロの話をしていて、二次創作あるよねと思ってアタリをつけて検索したらフィガロはよさそう、という結果になった。でももうソシャゲは増やせない。人間には限界ってものがあるので同時に2つのソシャゲはできない。それで艦これやってた時期にとうらぶも見送ってるし、やっぱり勿体無いような気がする。

本を積みすぎてるからこの休みの間に何冊か読みたいんだけど、生活は生活でグチャグチャだから本当は何かすべきなのかもしれない。いずれにしても会いたい人間に会えないし話したい人間と話せないので生きている意味がないし生活のために何かをしようと思えない。恋が必要だと思う。必ずしも相手が異性である必要はなくて、知らないものに出会うような、よく知らないものに想いを馳せるような行い、という意味。ひとりでいるとき、自分以外のことを考えたいのだ。恋が必要と言ってみたもののほんとうに恋愛を持ちかけられたら即座に困るのだからあまり大きなことを言ってはいけないな。金井美恵子の『小春日和』をもうすぐ読み終わる。

シャワーを浴びた後はスプラトゥーンをした、ヒーローモードを少しやったらガチマッチがアサリの時間帯で、私はアサリがだいすきなのでたくさん走ってほぼ2時間やった。ヒメ先輩のamiibo欲しいな、オーロラのスニーカー。オーロラで思い出したけど永原真夏さんの部屋の中で撮った?MVがよかったな、まだ全編見てない。最近白い服が落ち着く。永原真夏さんの影響かもしれない。

明日は墓参りをすることになっていて、それぞれの人のことは嫌いではないんだけど、総勢で6名になるので嫌だなと思っている。人間の集まり。わざわざ話したいようなことはあまりない。声を出すのは面倒だなと思う。

また居場所がわからなくなりたいな、少し遠いところで静かにしていたい。