ペンギン・ハイウェイを読んだ記憶をすっかり失くしていたことにショックを受けて積んであったのを読んだ。京都の大学5年生の懊悩の話。
私が西尾維新ファンであるのと同じように森見登美彦ファンであったなら感じないことなのかもしれないのだけど、なんか塩気が欲しいなと思った時に、うっかりたまり醤油のわりと堅いあられを食べ始めたような読み応えだった。とにかく全部の気持ち悪さを無視して最初の50ページくらいをばりごりばりと読んでしまう必要がある。完全にホモソーシャルの話、あるいは幻想としての女の話なので現実の女たるところの私はマジで暇な観光客である。あまつさえ主人公は"煙草をくゆらせ"たりする。いちいちツッコミを入れる競技なのか?売られた喧嘩は全部買った方がいいのか?そんなわけなくない?ととりあえず口の中のあられを噛み砕いていると、喉がかわいてくる。そしてもういいかげんしんどいな、と思った頃に清水のように達者な日本語が染み渡ってくるのだ。
外に出れば、こみかみがひきつるほど寒かった。顔全体の皮膚が小さくちぢんで、どうしてもこめかみ付近で足りなくなるらしい。ちょっと針でつつけばぱちんと顔がはぜてしまうのではないかという恐ろしい想像をして気味が悪くなり、その想像を克明にメールに書いて飾磨に送りつけた。
「見つけた」
私は言った。
「何を?」
高藪はびっくりしたらしい。
「自分」
「どこで?」
「大英博物館に陳列してあった」
-中略-
「これぐらいのブリキの箱に入っていて、可愛いリボンがかかっていた。それはもう、感動的な出会いであったという」
小気味いい描写やセリフが幾つもある。断片になっても味わいが失われないシーンがある。
平成十八年だったとしても怒涛の口上の合間にやぶ睨みに見栄を切ることによってしかこの文体の小説は書けなかったのだと思うと、今だったらもうどうしたらいいんだろう、時代の設定は必須じゃないか、と余計な心配をした。森見登美彦の小説にはこういうかんじのが他にもあるんだろうか。
たまたま本屋にあった新潮文庫がコレだったのだけど、ファンの多くはある程度若者だった時にほぼリアルタイムで読んで、今では「懐かしい」と思う作品であるような気がするので、近作も一冊くらい読んでみようかと思った。