いきたくないのに出かけていく

エッセイを続けて読んだら、角田光代もイルカショーを見て泣いていた。私も泣く方なので、水族館でイルカが見られるのはやっぱりたぶん何か異常にラッキーな時代のバグなんだろうと思う、間に合ってよかった。

 

後半になればなるほどよかった、と思ったけれどそれは私の集中力の問題かもしれない。旅にまつわるエッセイが40篇弱。

二十代で何かを恒例化すると、「この先どのくらいくり返さなくてはならないのか」と、先の見えない約束にうんざりするが、五十代だと、「三十年は続かないだろう」とどこかで思っているし、さらに経験上、こういう恒例ものがぱっと終わることも知っている。ぱっと終わっても、さほどかなしくないことも知っている。だからなおのこと、恒例化はしやすいように思う。-『恒例化の謎』

最近恒例化の気配を感じることはあって、でも今のところは相手が変わっても同じようなことが出来ればいいのだけど、だんだんメンバーすら恒例になるらしい。同じようなことをしたいのは、思い出したいからでもあるし、その集中に入ることを心地よく思っているからでもある。助手席に乗ることであれ、植物を見ることであれ、ある種の感情の手順、神経の作法があって、それを順々に行うと落ち着く。同じ出汁を使って具材のバリエーションで遊ぶ安心に似ている。でもぱっと終わってもかなしくないならよかったし、なんとなくそういうものだろうという気もする。

こういうとき、私は本当に、世界のいろんなことが滞りなくまわっているのは、そのどこにも私が関わっていないからだ、と実感する。まだ雨が降っていないのに、というより、目の前にごはんや焼き海苔や鯵の干物があるのに、午後からの天候や飛行機のことを考えられる人こそが、この世界の多くのことを動かしているのだ。-『東京の島』

前段で、乗る予定だった八丈島発の飛行機が欠航だと聞いた作者は、朝ごはんを食べながら「じゃあ東京に帰るのは明日かー」と呑気に思っていたのだけど、次の瞬間には午前中に出る船で帰る段取りがされていたのだ。

 私も、仕方がないことは仕方がないで済ませたい方なので、あれこれ段取りを変更したり奥の手を使ったりするのは苦手なのだけど、ここまで完全な形で取り残されて感動する気持ちになったことは殆どなくて、なんとなく格の違いを見せつけられた感じがする。

全般に仕事の旅は仕事の旅、休暇を取れたら趣味の旅、として割り切っている感じはあるのに、仕事について勤め人のような世知辛さを感じさせることは殆ど書いていない。書いていないだけだとはわかっていても、作家の生活って実際どんなものなんだろうなあ、と興味が湧いてきて、むしろ書いていないことのほうに思いを馳せながら読み終えた。もっと紀行文に近いようなわくわくドキドキの冒険譚かと思っていたのだけど、どこにいても角田光代角田光代であることだなあ、というような、平熱と微熱を行ったり来たり、裏切らないエッセイ集だった。