男らしさの終焉

 

男らしさの終焉

ソフトカバー好き。この本がピンクと水色の装丁なのはいいな。

著者のグレイソン•ペリーはイギリスの著名なアーティストらしかったので、さっき画像検索してみたのだけど私は作品を生で見たことはないと思う。たぶん。本当は彼の活動を少しでも知っていたらよかったのだけども。

主題は男性性についてなのだけど、のっけから「男性は」「男は」とクソデカ主語で強めのことをガンガン言うので、気の弱い私はヒィィィこんなんすぐ炎上しちゃうよう…と気が気でなかったのだけど、本人の写真など見ると炎上上等って雰囲気だったので心配しないことにした。むしろアーティストなので燃やすのは仕事のうちかもしれない。

この本は、完全に"男性に向けて" 書かれていた。あくまでも男性が、男性性の特徴、成り立ち、メリットデメリット、その越し方と行く末について男性向けに書いた本で、おそらく私はターゲットじゃない。だれか男性の知人が読んで感想を教えてくれるなら私の手元の一冊をあげてもいい。これを男性がどう思うか知りたい。

もし、読んでいる間中「僕はこんなふうじゃない」「私の職場にはこんなやつはいない」「こんな権利はいらない」「現実は違う」など否定をし続けたとしても、ひとつひとつの指摘や提案に、ノー、という回答をしたという事実が、自分の男性性に対する考え方を自覚する助けになると思う。

最初にも書いた通りこの本には、逃げようと思えば逃げられるような隙があるし、文中で全ての情報についてソースが示されるわけではない。訳者による注もない。(これ固有名詞知らないとちょっと辛くて、イギリスのこと知らない人はおググりくだされの趣)だから、否定したり拒絶したり反論したりすることは容易い。そうする振る舞いを想定してもなお、この本を読む体験は、作中で"古い男性性"として扱われるものを温存したいような人を含む多くの男性にとって、有益なはずだと思う。あくまでも作者が作者の経験に立脚して具体的な意見を述べているし、女性差別についてでなく、男性自身による男性差別/男性疎外について書いてある。そのため、上から目線のお説教やイデオロギーの押し付けは発生していないと思うのだ。

 

以下は女の私による自分用のメモ。

ソーシャルワークの研究者であるブレネー•ブラウンは、TEDで「傷つく心の力」という素晴らしいトークを行なった。グーグルで「傷つく心(vulnerability)」を検索すると、最初のページに彼女が表示される。ブラウンによると、最も充実した人間関係をうまく築いているのは、心が傷つくリスクを冒し、自分の弱さと失敗、つまり自分の弱さの根底にあるものをさらけ出せる人だという。他人に自分を開いているのだ。

現状私には充実させたい人間関係なんていくらもない。傷つくリスクを冒している間中、頭の中に他人が侵入するような状態になるし、その状態が最近ではかなりわずらわしい。もしきちんとこのTEDを見たら違うことを感じるかもしれない、という期待を込めて、忘れないために引いておく。この本は私にも、きちんと役立っている。

 

笹の舟で海をわたる

 

 

主人公・左織は私の祖母と同世代(昭和ヒトケタ後半〜10年代前半生まれ?)だった。私は彼女の孫と同世代だ。

左織は、疎開先が同じだった風美子と、二十二歳で再会する。風美子が、左織の夫となった温彦の弟、潤司と結婚したことにより、ふたりは義理の姉妹となった。冒頭、60代の彼女らは共に夫に先立たれ、同居を検討して海辺の家を内見している。その後風美子との再会後の物語がひもとかれ、冒頭のシーンに向かって時代が下り、風美子と過ごす時間が長くなるにつれ、当初はぼんやりとしていた左織の疎開時代の回想ははっきりと詳細になってゆく。

映画「ボヘミアンラプソディ」を見たとき、世界にクイーンしかいなかったみたい、という悪口が口をついて出たが、この作品は逆で、登場人物たちについてはわからないことが沢山あるのに、昭和から平成にかけてのおおまかな戦後史がさらえてしまう。温彦が大学教授なので学生運動ベトナム戦争なんかもばっちりである。

左織がお見合いをして一時は専業主婦となり二児をもうけた一方、戦災孤児だった風美子は再会当時キャバレーで働いており、のちに料理研究家として活躍する。自分の人生を自分のしたいようにする風美子と、いつも何かに「巻き込まれ」て、自分の意思で何かを決定することのない左織。時代の流れ、うねりがそこかしこに書き込まれ進む家族の物語のなかで、この二人の能動/受動の対照性はずっと際立っている。

左織の価値観は基本的に保守的で、且つそのことに自覚的なわけでもなく、加えて学もないので読者に彼女自身の考えや気持ちを詳らかにしてくれるわけでもないのだけど、時々彼女が自身の経験から何かに気づくときがあって、それは彼女の簡単な言葉で示される。

けれども、この二年か三年のあいだに、何かが大きく変わったのだと学生たちを見ていて感じる。何か、がなんであるのかは、左織にはわからない。けれどつまり、学生服に学生帽が、ポロシャツにスラックスになるようなことだ。あることは変わらないけれど、あることは変わり続けるのだと、かつてとは大きく異なる学生たちを眺めて、左織はあたらしい発見のように思うのだ。

これは1970年ごろの左織の感想だが、"あることは変わらないけれど、あることは変わり続けるのだ" なんていう哲学じみた一文を読むことになるなんて、一行前まで予想できなかったし、このような感興を、出来事がすっかり歴史となったあとで、さも何もわかっていないような素朴な物言いで作品の登場人物に語らせるなんていうことが、角田光世ならできるんだな、と感動していた。いつものやつだ、違う脳みそが入っている。

 

私にとっては家電の導入の頃合いまで祖母の見てきたであろう世界に重なっていて、聞きかじりの、口伝された懐かしさがあった。また祖母について、この小説の最終時点よりさらに20年ほど未来で生活しているのを私は身近に知っている。人生はそのように続いていくという予感がこの作品内にも漂っていて、これは風美子と左織の人生なんだな、という手応えがあった。取り扱う時間のスケールは大きいけど文章は平易なので、祖父母が昭和初期生まれのひとや、あるいは1960年より少し前に生まれた左織の子ども世代のひとにすすめたいなと思う。

アレックスと私

 

カバーイラストをカシワイさんが描いていた。時々Twitterでイラストを目にしていて、紙に印刷されているのは初めて認識した。かわいいヨウム"アレックス"と、"私"用であろう椅子。いい雰囲気だなと思う。

2010年に幻冬舎から出た単行本の文庫化で、著者であるアメリカの研究者が、ヨウムのアレックスと共に、認知と理解についての研究を行った30年間を振り返った本。

これは大事な注意だが冒頭はアレックスへの哀悼メッセージの紹介から始まるため鳥が死ぬのが無理な人は読まない方がいい。泣いてしまいます。それとこの読み物の最後の方でもアレックスが亡くなった時のことが書かれているのでご安全に。

中身はめちゃめちゃに面白くて、私が小学生のときに読んでいたら鳥も飼いたくなっていたかもしれない。ファーブル昆虫記やシートン動物記、図鑑やどうぶつ奇想天外が好きな人におすすめ。あと鳥が好きで悲しみに耐えられる人。

読み進めるにつれアレックスの能力がどんどん確かめられてゆくのも、その科学的な証明方法の解説によって、自分が普段無意識に行なっている概念の理解・操作がこのように分解されるものだったんだなとわかるのもとても楽しい体験なのだけど、それ以上に感動的なのは、ペパーバーグ博士のキャリアの積み上げ方だ。壮絶で、いつ血を吐いて死んでもおかしくないのではというような苦労をしている。根性に圧倒された。博士は16歳でさらっと大学に入るくらいに頭がいいのに、どこの国も研究者稼業は大変なんだなと思う。

しかしそのような厳しい状況の中で、寿命の長いヨウムを責任を持って管理し続ける様子は、一般的な動物実験のイメージからはかけ離れたものだった。私のような動物好きにとって、このように動物の知能についての研究が進められ、それが大きな成果をもたらしたということが、とても嬉しく感じられた。

文化的には、西洋文明における、動物を下等生物として位置づけ、人間とは全く違う生き物として扱う宗教的な背景に博士は苦しめられていたようだった。そのせいで博士は研究成果の発表時に保守的な人々を刺激しすぎないよう言葉を選んでいる。一般的な人々の、"人間の特別さ" に対する認識が、進化論が科学的に受け入れられてなお20世紀いっぱいあまり揺らいでいなかったことは初めて知ったので、博士の研究に対する反応の厳しさには少し驚いた。日本でもたしかに犬畜生という言葉があるが、一方でお稲荷さんやオオカミやヒグマへの信仰はあり、動物に限らない八百万の神に対する信仰がある。富士山のことも信じてるし神社には人間も祀れる。作中で紹介されるネイティブ・アメリカンの考え方に近い信仰や、多神教ベースで仏教やキリスト教を受容してきた(してしまった)歴史があり、この側面に限っては日本のような国の方が博士の研究結果は受け入れられやすかったかもしれないと思う。

 

そして全ての驚くべきような内容に関わらず、この本は2010年には既に出版されていたものだ。当然今現在もこの分野の研究は進められているはずなので、次にこのジャンルの本を私が手に取ったとき、どんな新たな驚きがあるかと思うと明るい気持ちになれる。よい本をよい時に読んだ。

 

p.s.完全に余談だけど第7章に、同じ研究所にいた犬の研究者とお互いをwoofer(イヌ男)、tweeter(トリ女)と呼び合っていたというエピが出てきて、よすぎて、そこだけ二次創作してくれ、ラブストーリーで…!誰か…!となっていた。印象的な人間同士のやりとりが他にもいくつか紹介されているので本書はオタクにもおすすめ。

袋小路の男

 

 

単行本は2004年の出版だった。3つの作品が収められている。

「袋小路の男」

表題作。女が高校の先輩に片思いをし続ける話。男は女を恋人にはせず、かといってたいして遠ざけもせずに12年過ごすし、この先もそうするだろう。高校生のときにこの小説を読んだって、何もわからなかっただろうと思う。今は、人間関係や個人の情動を、そういうものだと思って、あるいはそういうものであったらいいと思って生きているので、私じゃない人が長い片思いの話を書いてくれていたこと自体にとても癒された。

 

「小田切孝の言い分」

2作目は、表題作と同じ登場人物による同じ話を、三人称に移した作品だ。小田切孝というのは思われていた男の名前で、読むごとにこの関係性が厳密な意味での片思いではないことがわかる。恋愛としては片思いなのだろうけど、この男が大谷(片思いする女)を、思っていないわけではないのだ。

大谷の問題意識が私のにとても近くて、そうなんだよなあ、どうしようかなあと思わされたので引く。

変な人とはつき合いたくない。誰か大事な人をもし見つけたとしたら、必ず小田切の存在が問題になってくる。私と同じくらい小田切のことを大切に思う男なんているわけがないのだから、どちらかを捨てなければならなくなる。日向子は小田切を袋小路に置き去りにすることを恐れた。

以前の恋人と付き合っていたときから、ほぼ同じ問いを抱えたままで生活している。その人と別れた理由の過半が、私が大切にしているものを相手は大切にしてくれない、ということだったのを思い出した。現在の私にとって問題になる人は私のことを思っていないので、もしこの先私がパートナーを生活に迎えたとしても、表面的に何か起こることはないだろうと思うのだけど、私自身の内部的な問題にはなるだろうと思う。あるいは既になっている。

これはほとんど信仰の問題で、私は現在別のところで生きているその人をどう思うか、その人にどう思われるかという問題より先に、その人と共に過ごした時間の大切さ、重大さ、その恩寵を受けた自分に対し、新しく登場した事物がふさわしいかという問題に向き合うことになる。あの輪をくぐってしまった私にとって、傷つけられてやることができるようなことはそんなにいくつもないし、傷つけられることが可能だったとしてその傷がノイズではないか、私の魂を濁らせないかは、私が判断するしかない。

そのような内部的な問題があるにも関わらず、新しい人間関係がこの先発生したとして、絶対に捨てられない思い出の品について、思い出に立ち会った人間以外から理解を得るのは難しいことだ。でも私はそれを置き去りにできないことが予めわかっている。

 

「アーリオ•オーリオ」

池袋で一緒にプラネタリウムを見たことをきっかけに始まる30代後半の叔父と中3の姪の文通の話。姪は家庭では勉強にせき立てられて息苦しさを感じていて、叔父はそういう姪のストレスや自由な好奇心の解放先となっている。

この"独身のなにやってるかよくわからない親戚" というキャラクターはともすると美味しいところだけを持って行きがちなんだけど、作中、姪の父である兄から、手紙に返事を出すのをやめるように言われて、弟はちゃんと言うことを聞く。それがすごく品がいいなと思って読んでいた。兄弟の性格や人生の選択は全然違うもので、現在の立場も違うから、兄は弟のように姪の気持ちを受け止めてやることはできない。でも、姪の養育に責任を持っているのは兄で、そういう"大人側の事情"(姪にとっては知ったこっちゃないだろうが)は破壊されない。生活ってこういうものだよなあ。

その上で、生きていく中では "叔父との文通" のような、生活そのものには不必要な夢/ファンタジーがたぶん誰にでも必要で、それはハタから読むとこんなに明るいものだったんだなとも思う。

動きすぎてはいけない

 

 

動きすぎるとウイルスの運び屋扱いで他人に叱られるような状況の中、ここ最近はこれを読んでいた。

著者はTwitterアカウントを持っていて、わりと長い間観測範囲に入っていたのに著作を読んでいない人のひとりだな、と気づいて本を買って、結果的に読んで良かったと思う。著者が配慮のない言い方や理解のない事柄に対する軽率な発言で"炎上"していても、この仕事の大変さに比べたら屁でもないでしょうねと思えるし。

履修した学部の授業にドゥルーズ=ガタリについてのものがあったことと、東浩紀存在論的、郵便的_ジャック・デリダについて」をたまたま読んでいたことに理解(想像)を助けられた。まぁあとがきまでを読んだ段階では私は何を読んでいたんだろう…くらいに思っていたのだけど、巻末の解説(まだ全部読んでない)が、ちゃんと復習に見えたので、多少は何か読んだのだろうと思う。

この本は著者の博士論文を改稿して刊行されているのだけど、論文の改稿の仕方がたぶんかなり大胆で、この間読んだ高史明の博論よりもかなり文学寄りだった。読みやすいわけではないけど、感動はある。

内容について書こうとしてページをパラパラしたら大変そうだったのでやめるけど、私が好きだったのはシニフィアン連鎖のあたりから後で、もちろん最初のあたりのリゾームや非意味的切断についての記述は読まなきゃなんだけど、"8章 形態と否認 『感覚の論理』から『マゾッホ紹介』へ"や、"9章 動物への生成変化"あたりまで行くと論文としての構成の壮大さに対する感動があった。生成変化というテーマで、ここまで繋げることができるんだな、と思う。

いい加減ドゥルーズも親切な人の抜粋じゃなくて本人の著作を読まなくちゃ。

視点を変えない

時々友人の愚痴や悩みの吐露を聞くことがあって、本人が楽になればという老婆心で、"でもこういう人もいるし" 、"私なんかはこうだし" 、と相手の状況とそれに対する評価を相対化する発言をするときがある。相手が誰かに話したいと思って人となりを知る私を選んでいる以上、それ自体は特に咎められるべきようなことでもないとは思うんだけど、自分はミリも相対化を許せない感情を抱えたままでようやるなとも思っている。私の場合いくら話す人間を選んでもそのうちには事故るだろう。轢くのは私だし、轢く私が悪い。

潤んだ季節が来て、ほとんどを眠って過ごしている。現実が遠くなるというよりは、今ここにいる状態が、いつどこにいる状態のことなのかわからなくなる。

赤木遥+安田和弘「花たちへ/花を踏む」

この記事を公開する頃には終わっている展示の話を、今書いておく。

Instagramで最初の告知が視界に入ったとき、コレ私の住む街に巡回してくれる予定ないかな、と考えて安田さんに言ってみたら、ないですとのことで、現実は厳しいなと思っていた。数日後、赤木さんから250kmほどを旅したDMがホクホクと届いて、告知くれるタイプのバンド…もといカメラマン…となったので伺うことにした。観てよかったと思う。

 

1階と2階に展示スペースがあり、1階は赤木さんの作品メイン、2階は安田さんの作品メインだった。甘いものをあとに取っておく感覚で2階から見た。邪道だったかもしれない。いきなり正方形が並んでいて緊張が走った、えっなんだっけ花を?花を踏むって?となった。実際のところ花を踏んでいる様子の写真はなくて(それはなくていいでしょ)でも、分け入っても開けたところに出ても何かが見える、歩けばぺきっとした建売住宅があらわれ、立ち止まるとコンクリの壁に行き当たるような。何かに似ていると思ったけどマインクラフトかも、なんでだか観ている自分以外に人がいない気がするのだ。実際には作者の視点があってどの正方形にするかの選択があって全部全部作為の賜物なのに。それで、正方形の外にあるだろう地面や、屋根の斜めの線の続きや、天井近くの配管や、電信柱のてっぺんのことを思う。私がコントローラーを操作して視界を振ったら見えるはずの。でもそれが見えなくて、見えないことで作品が固定されている、と思う。正方形、普段の視野からすると特に横幅が狭くて、こちらが覗く側であることを意識させられる。

 

そういう緊張感のある画面でウッてなって(すきなウッ)奥のコーナーに行くと、赤木さんが桜をふわふわと川に流してて、それは一旦折り畳んでしまわれた過去で、でもほら、それを開いて見せてくれるとこまでが優しさとエゴだから!人情!と感じて気持ちが緩んだように思う。あのときにはあったものが今はないとしても、なくても巡る季節がむしろ人を長らえさせることはあって、春のうららの隅田川感に癒された。たしかここのコーナーにレターセットに使われている3枚組があって、あれは別にレターセットにしようと思って撮影されたわけではないだろうにレターセットにぴったりだなと思う。まだ1組だけ手元に残っている。

 

1階に降りて、赤木さんの真鍮の額に入れられたシリーズと大きくてツヤツヤの紙に印刷されたシリーズを見て振り返ったら再び安田さんの正方形が整列しててね、ひってなった。でもあのテーブル置いてあるピロティ/バルコニーみたいなとこから明るい緑を窺うかんじの1枚が好きだった。見てるのが私だと、あの向こうで狐の嫁入りが開催されるか、薄曇りの小雨が降る。

 

1階に展示された赤木さんの写真は、その花を撮ってる時間以外も、花と同じ空間にいることがわかる(まぁ部屋に花を生けたことのある人間ならたぶんわかる)写真だった。花をどのように見てたのか、花はどう見えたのか、暮らしている人間の気配がする。

 

花瓶に生けられている花を見下ろしている作品があって、さりげなくて好きだった。サイズは大きいのだけど。赤木さんは花のことを、生きていて自分とは別の生きものだと言っていて、それは事実だし彼女の作品の話をするときにはそれがほんとうなので分けて読んでほしいのだけど、その作品を見たとき、根なしの草花を自分の部屋に飾ると、自分の手中にある命だな、と思うのを思い出した。水切りや水換えをしなければ、その分完全に死ぬのが早まる死体。遅かれ早かれ完全に死ぬんだけど、私はその緩和ケアをしているのだ。私にとって花を部屋の中に飾ることは、命の気配を感じることであると同時に、看取りの手順、手続きでもあるのだと思った。あれは珍しいことで、例えば犬を飼うのとは性質が違う。犬にも看取りの段階はあるけど、過半は自律する生命と暮らすことになる。

 

でもあの5枚組かな、真鍮の額に入れられた、チューリップやら洗面器で水あげしてるなにやらの作品、小さなテーブルが壁面に沿って置かれてる上の壁に並べでもしたら素敵だろうな、窓がいくつかある明るい部屋の。飾ることが想像できるのもいいところと思う。売ってるかどうか知らないでいうことでもないけど…。私は作品を買うほどいい部屋に住んでないから写真帖を買った。「暗くて劇的で、新宿ですね」とか適当なことを言って持ち帰って、まだ飾ってもいない。

 

大きくてツヤツヤしたプリントのシリーズの中にも印象的な一枚があった。照明の消してある部屋に、テレビの画面と花だけが浮き上がっている作品があるんだけど、紙がつやつやなので自分の顔が映る。多分作品自体からの連想もあって、深夜に洗面所を横切ったら風呂の姿見に自分が映るときとか、朝方喉が渇いてベッドから起き上がったら片側蓋を閉め忘れた三面鏡と目が合うときのことを思い出した。とにかく室内で、生活空間なんだなと思う。帰る場所であり生きる場所であるところ。

 

対照的に見える二人の写真家の作品を一度に見たことで、記憶に残ることが増えているように思う。対比はいいフックになるので。違う日に見に行った友人と感想を話したりして、ここ最近めっきり数の減った "体験の共有"  をさせてもらった。嬉しい日でした。