赤木遥+安田和弘「花たちへ/花を踏む」

この記事を公開する頃には終わっている展示の話を、今書いておく。

Instagramで最初の告知が視界に入ったとき、コレ私の住む街に巡回してくれる予定ないかな、と考えて安田さんに言ってみたら、ないですとのことで、現実は厳しいなと思っていた。数日後、赤木さんから250kmほどを旅したDMがホクホクと届いて、告知くれるタイプのバンド…もといカメラマン…となったので伺うことにした。観てよかったと思う。

 

1階と2階に展示スペースがあり、1階は赤木さんの作品メイン、2階は安田さんの作品メインだった。甘いものをあとに取っておく感覚で2階から見た。邪道だったかもしれない。いきなり正方形が並んでいて緊張が走った、えっなんだっけ花を?花を踏むって?となった。実際のところ花を踏んでいる様子の写真はなくて(それはなくていいでしょ)でも、分け入っても開けたところに出ても何かが見える、歩けばぺきっとした建売住宅があらわれ、立ち止まるとコンクリの壁に行き当たるような。何かに似ていると思ったけどマインクラフトかも、なんでだか観ている自分以外に人がいない気がするのだ。実際には作者の視点があってどの正方形にするかの選択があって全部全部作為の賜物なのに。それで、正方形の外にあるだろう地面や、屋根の斜めの線の続きや、天井近くの配管や、電信柱のてっぺんのことを思う。私がコントローラーを操作して視界を振ったら見えるはずの。でもそれが見えなくて、見えないことで作品が固定されている、と思う。正方形、普段の視野からすると特に横幅が狭くて、こちらが覗く側であることを意識させられる。

 

そういう緊張感のある画面でウッてなって(すきなウッ)奥のコーナーに行くと、赤木さんが桜をふわふわと川に流してて、それは一旦折り畳んでしまわれた過去で、でもほら、それを開いて見せてくれるとこまでが優しさとエゴだから!人情!と感じて気持ちが緩んだように思う。あのときにはあったものが今はないとしても、なくても巡る季節がむしろ人を長らえさせることはあって、春のうららの隅田川感に癒された。たしかここのコーナーにレターセットに使われている3枚組があって、あれは別にレターセットにしようと思って撮影されたわけではないだろうにレターセットにぴったりだなと思う。まだ1組だけ手元に残っている。

 

1階に降りて、赤木さんの真鍮の額に入れられたシリーズと大きくてツヤツヤの紙に印刷されたシリーズを見て振り返ったら再び安田さんの正方形が整列しててね、ひってなった。でもあのテーブル置いてあるピロティ/バルコニーみたいなとこから明るい緑を窺うかんじの1枚が好きだった。見てるのが私だと、あの向こうで狐の嫁入りが開催されるか、薄曇りの小雨が降る。

 

1階に展示された赤木さんの写真は、その花を撮ってる時間以外も、花と同じ空間にいることがわかる(まぁ部屋に花を生けたことのある人間ならたぶんわかる)写真だった。花をどのように見てたのか、花はどう見えたのか、暮らしている人間の気配がする。

 

花瓶に生けられている花を見下ろしている作品があって、さりげなくて好きだった。サイズは大きいのだけど。赤木さんは花のことを、生きていて自分とは別の生きものだと言っていて、それは事実だし彼女の作品の話をするときにはそれがほんとうなので分けて読んでほしいのだけど、その作品を見たとき、根なしの草花を自分の部屋に飾ると、自分の手中にある命だな、と思うのを思い出した。水切りや水換えをしなければ、その分完全に死ぬのが早まる死体。遅かれ早かれ完全に死ぬんだけど、私はその緩和ケアをしているのだ。私にとって花を部屋の中に飾ることは、命の気配を感じることであると同時に、看取りの手順、手続きでもあるのだと思った。あれは珍しいことで、例えば犬を飼うのとは性質が違う。犬にも看取りの段階はあるけど、過半は自律する生命と暮らすことになる。

 

でもあの5枚組かな、真鍮の額に入れられた、チューリップやら洗面器で水あげしてるなにやらの作品、小さなテーブルが壁面に沿って置かれてる上の壁に並べでもしたら素敵だろうな、窓がいくつかある明るい部屋の。飾ることが想像できるのもいいところと思う。売ってるかどうか知らないでいうことでもないけど…。私は作品を買うほどいい部屋に住んでないから写真帖を買った。「暗くて劇的で、新宿ですね」とか適当なことを言って持ち帰って、まだ飾ってもいない。

 

大きくてツヤツヤしたプリントのシリーズの中にも印象的な一枚があった。照明の消してある部屋に、テレビの画面と花だけが浮き上がっている作品があるんだけど、紙がつやつやなので自分の顔が映る。多分作品自体からの連想もあって、深夜に洗面所を横切ったら風呂の姿見に自分が映るときとか、朝方喉が渇いてベッドから起き上がったら片側蓋を閉め忘れた三面鏡と目が合うときのことを思い出した。とにかく室内で、生活空間なんだなと思う。帰る場所であり生きる場所であるところ。

 

対照的に見える二人の写真家の作品を一度に見たことで、記憶に残ることが増えているように思う。対比はいいフックになるので。違う日に見に行った友人と感想を話したりして、ここ最近めっきり数の減った "体験の共有"  をさせてもらった。嬉しい日でした。