笹の舟で海をわたる

 

 

主人公・左織は私の祖母と同世代(昭和ヒトケタ後半〜10年代前半生まれ?)だった。私は彼女の孫と同世代だ。

左織は、疎開先が同じだった風美子と、二十二歳で再会する。風美子が、左織の夫となった温彦の弟、潤司と結婚したことにより、ふたりは義理の姉妹となった。冒頭、60代の彼女らは共に夫に先立たれ、同居を検討して海辺の家を内見している。その後風美子との再会後の物語がひもとかれ、冒頭のシーンに向かって時代が下り、風美子と過ごす時間が長くなるにつれ、当初はぼんやりとしていた左織の疎開時代の回想ははっきりと詳細になってゆく。

映画「ボヘミアンラプソディ」を見たとき、世界にクイーンしかいなかったみたい、という悪口が口をついて出たが、この作品は逆で、登場人物たちについてはわからないことが沢山あるのに、昭和から平成にかけてのおおまかな戦後史がさらえてしまう。温彦が大学教授なので学生運動ベトナム戦争なんかもばっちりである。

左織がお見合いをして一時は専業主婦となり二児をもうけた一方、戦災孤児だった風美子は再会当時キャバレーで働いており、のちに料理研究家として活躍する。自分の人生を自分のしたいようにする風美子と、いつも何かに「巻き込まれ」て、自分の意思で何かを決定することのない左織。時代の流れ、うねりがそこかしこに書き込まれ進む家族の物語のなかで、この二人の能動/受動の対照性はずっと際立っている。

左織の価値観は基本的に保守的で、且つそのことに自覚的なわけでもなく、加えて学もないので読者に彼女自身の考えや気持ちを詳らかにしてくれるわけでもないのだけど、時々彼女が自身の経験から何かに気づくときがあって、それは彼女の簡単な言葉で示される。

けれども、この二年か三年のあいだに、何かが大きく変わったのだと学生たちを見ていて感じる。何か、がなんであるのかは、左織にはわからない。けれどつまり、学生服に学生帽が、ポロシャツにスラックスになるようなことだ。あることは変わらないけれど、あることは変わり続けるのだと、かつてとは大きく異なる学生たちを眺めて、左織はあたらしい発見のように思うのだ。

これは1970年ごろの左織の感想だが、"あることは変わらないけれど、あることは変わり続けるのだ" なんていう哲学じみた一文を読むことになるなんて、一行前まで予想できなかったし、このような感興を、出来事がすっかり歴史となったあとで、さも何もわかっていないような素朴な物言いで作品の登場人物に語らせるなんていうことが、角田光世ならできるんだな、と感動していた。いつものやつだ、違う脳みそが入っている。

 

私にとっては家電の導入の頃合いまで祖母の見てきたであろう世界に重なっていて、聞きかじりの、口伝された懐かしさがあった。また祖母について、この小説の最終時点よりさらに20年ほど未来で生活しているのを私は身近に知っている。人生はそのように続いていくという予感がこの作品内にも漂っていて、これは風美子と左織の人生なんだな、という手応えがあった。取り扱う時間のスケールは大きいけど文章は平易なので、祖父母が昭和初期生まれのひとや、あるいは1960年より少し前に生まれた左織の子ども世代のひとにすすめたいなと思う。