袋小路の男

 

 

単行本は2004年の出版だった。3つの作品が収められている。

「袋小路の男」

表題作。女が高校の先輩に片思いをし続ける話。男は女を恋人にはせず、かといってたいして遠ざけもせずに12年過ごすし、この先もそうするだろう。高校生のときにこの小説を読んだって、何もわからなかっただろうと思う。今は、人間関係や個人の情動を、そういうものだと思って、あるいはそういうものであったらいいと思って生きているので、私じゃない人が長い片思いの話を書いてくれていたこと自体にとても癒された。

 

「小田切孝の言い分」

2作目は、表題作と同じ登場人物による同じ話を、三人称に移した作品だ。小田切孝というのは思われていた男の名前で、読むごとにこの関係性が厳密な意味での片思いではないことがわかる。恋愛としては片思いなのだろうけど、この男が大谷(片思いする女)を、思っていないわけではないのだ。

大谷の問題意識が私のにとても近くて、そうなんだよなあ、どうしようかなあと思わされたので引く。

変な人とはつき合いたくない。誰か大事な人をもし見つけたとしたら、必ず小田切の存在が問題になってくる。私と同じくらい小田切のことを大切に思う男なんているわけがないのだから、どちらかを捨てなければならなくなる。日向子は小田切を袋小路に置き去りにすることを恐れた。

以前の恋人と付き合っていたときから、ほぼ同じ問いを抱えたままで生活している。その人と別れた理由の過半が、私が大切にしているものを相手は大切にしてくれない、ということだったのを思い出した。現在の私にとって問題になる人は私のことを思っていないので、もしこの先私がパートナーを生活に迎えたとしても、表面的に何か起こることはないだろうと思うのだけど、私自身の内部的な問題にはなるだろうと思う。あるいは既になっている。

これはほとんど信仰の問題で、私は現在別のところで生きているその人をどう思うか、その人にどう思われるかという問題より先に、その人と共に過ごした時間の大切さ、重大さ、その恩寵を受けた自分に対し、新しく登場した事物がふさわしいかという問題に向き合うことになる。あの輪をくぐってしまった私にとって、傷つけられてやることができるようなことはそんなにいくつもないし、傷つけられることが可能だったとしてその傷がノイズではないか、私の魂を濁らせないかは、私が判断するしかない。

そのような内部的な問題があるにも関わらず、新しい人間関係がこの先発生したとして、絶対に捨てられない思い出の品について、思い出に立ち会った人間以外から理解を得るのは難しいことだ。でも私はそれを置き去りにできないことが予めわかっている。

 

「アーリオ•オーリオ」

池袋で一緒にプラネタリウムを見たことをきっかけに始まる30代後半の叔父と中3の姪の文通の話。姪は家庭では勉強にせき立てられて息苦しさを感じていて、叔父はそういう姪のストレスや自由な好奇心の解放先となっている。

この"独身のなにやってるかよくわからない親戚" というキャラクターはともすると美味しいところだけを持って行きがちなんだけど、作中、姪の父である兄から、手紙に返事を出すのをやめるように言われて、弟はちゃんと言うことを聞く。それがすごく品がいいなと思って読んでいた。兄弟の性格や人生の選択は全然違うもので、現在の立場も違うから、兄は弟のように姪の気持ちを受け止めてやることはできない。でも、姪の養育に責任を持っているのは兄で、そういう"大人側の事情"(姪にとっては知ったこっちゃないだろうが)は破壊されない。生活ってこういうものだよなあ。

その上で、生きていく中では "叔父との文通" のような、生活そのものには不必要な夢/ファンタジーがたぶん誰にでも必要で、それはハタから読むとこんなに明るいものだったんだなとも思う。