美少年椅子

 

美少年椅子 (講談社タイガ)

美少年椅子 (講談社タイガ)

 

 

5冊に1回くらいのペースで西尾維新挟むの、作家の多作なくしては成り立たない息抜きシステムなのだけど、私が西尾維新を読むようになってからというもの彼の刊行ペースに私の読了ペースが追いついたことはないので安心して読むことが出来る。

本作は単体だと何も解決していないにほぼ等しいので私もまだ読んでいない続編、「緑衣の美少年」とセットで買うと良いと思う、し、さんざ前作で何があったかが取り沙汰されるので「D坂の美少年」も買うといいと思う。

「逆に言うと、わたし達は別に、将来役に立つって思っているから、遊んでいるわけじゃないよねー『人間性を豊かにするから』て理由で、友達とコミュニケーションを取っているわけじゃないよね。結局、好みの問題でー好きで勉強している人に、『もっと映画を見るべきだ』って勧めることが、本当に文化的なことかって言われると、わからないよね。

「(前略)勉強をすることと対立するのは、本来、芸術することじゃなくて、勉強をしないことであって、勉強をしないから遊んでいるわけじゃないし、反対に、遊んでいるからと言って、勉強をしていないわけでもないよね。(後略)」

ここの数ページ普通に "実学" マウンティング野郎もカルチャーわかるかねおじさんも読んだらいいのだけど(野郎とおじさんは適宜BBAとかおばさんとかに読み替えてください)、ふつうにこの辺が物語を読み解くための補助線にもなっており、本日も流麗なり、あっぱれ。

私の場合は何かをわかるまでやるのが嫌だ、という癖があって、なんだかわからないものだけが楽しい。結局特に美意識に関わるようなもの(関わらないものの方が珍しいが)、例えばExcelとかデザインとかインテリアとか写真とか音楽とか家事とかファッションとか食事とか、それらは自分なりの学びに拠って「よい」ものを評価すると何かが「わるく」なりがちで、私には「よい」ものだけを作り選ぶだけの力も財も時もないのだ。

そのような、精神的な貧乏性を抱えている私にとって最高なのは、「ちょうどよい」ことだ。メンタルクリニックの待合室には毒にも薬にもならないようなオルゴールが流れてて欲しいし、私の家に必要なのは最高級のワインでも缶酎ハイでもなく甘くて安いバーボンだと感じる。

でもまぁこれらも結局いくつかの音楽といくつかのお酒を知らないと感じられない機微であって、知ることとわかること(あるいはわかったと感じること)の間に私がどんな線を引いているかという問題はあるのだけど、上に引用した主人公の話を受けて、指輪創作の言うことは正しい。

常に何かを知り何かを知らない、間の存在である私には、"考え続ける義務がある" 。指輪創作のセリフは格好いいから直接読んで欲しい、義務というのは微妙な(妙なる)言葉で、何に対しての義務なのか?という問いを読者の脳裏に浮かばせずにはおかない。流麗が憎い。

 

ちなみにこの本には書き下ろしの短編「放課後の道化師」がついていて、私はこれについてはかなり序盤で推理に成功したので鼻高々である。その他の読者諸君もぜひ挑戦してみてネ

まぐだら屋のマリア

 

まぐだら屋のマリア (幻冬舎文庫)

まぐだら屋のマリア (幻冬舎文庫)

  • 作者:原田 マハ
  • 発売日: 2014/02/06
  • メディア: 文庫
 

母が読み終わったあと私にパスしたのを読み終えた。わりと癇が強くなってる状態で終始泣きを入れながら読んだ。

 

以下ネタバレします

 

主人公の紫紋は勤務先の料亭の食品偽装事件により職を追われ、同僚を自死で失い、死に場所を求めて "尽果"なるバス停にたどり着く。そこには一軒の定食屋 "まぐだら屋" があった。紫紋は雇われ店主のマリアに拾われて…というお話。

このマリアがお察しの通りマグダラのマリア的に悔悛すべきような過去を背負っている。道ならぬ恋で相手の男の妻子を心中に追い込んだのだ。

物語の後半に、恋の相手であったはずの与羽という男が一度現れて、マリアと共に姿を消すのだけど、タネを明かしてしまうと結局マリアと与羽は添い遂げるわけではない。

最近の私は一度始めた恋を終わらせることに厳しいので、この辺があらすじとしてどうして成立するのか全く分からなくて、なんで相手の妻子を半ば殺すみたいにしてまで修羅場を潜ったのに、最期までずっと一緒にいなかったのだろう、としか思えなかった。もし関係が破綻したなら、破綻したまま一緒に死ねばよかったのにと思う。お互いのために指切り出来る人、一生に一人しか見つからないと思うのに。

 

そういうわけで恋愛という意味では一つも意味がわからなかった本作だが、私がだーだー泣いていた禍々しい要因がひとつあって、それは母の存在だ。紫紋の母を始め、この本には数人の重要な "母" が描かれている。そして殆どどの母も、子に対する深い愛、赦し慈しむこころを持っている。

私には子はいないので、子を愛する気持ちはとんとわからないんだけど、私は子なので、母が私を育てるにあたりかけた膨大な労力のことは見知っている。

母は未だに私を部分的に養っていて、つくづく嫌にならないのだろうかと思う。いくらいいと言っても小さな出費は払わせてもらえないし、少し遠い駅まで歩こうとすれば送っていこうか?と申し出てくれる。私は車を運転しないから、もし母に介護が必要になっても送迎はしてあげられないのに。そういう疑問の無さや、子が充分に応えるわけでもないのに差し出される好意が、あんまりひたむきで申し訳なく思うときがある。その悲しさを反芻せずにはいられないような場面がいくつもあった。

一方私は母性はやっぱり一種禍々しいところがあると思ってもいて、とかく強烈で絶大なのだ。子の本性に直接、帰っておいで、大丈夫だよ、と訴えかける。母性は、人を子にしてしまうのだと思う。もちろん母にとって子が子であることを否定はしないのだけど、人間として生きていくなら、人は誰しもその魔性のもとに生まれてくることをわかっていたいなと思う。

ブギーポップ・ミッシング ペパーミントの魔術師

 

このシリーズの最初の作品、「ブギーポップは笑わない」を読もうとしたら新装版が出ている関係か電撃文庫版を置いてる書店がさすがになくて、amazonが当時在庫していた中で一番出版年が古いものを買った。

 

結果的にはアイスクリーム屋さんの話で、私はアイスが好きなので幸運だったなと思う。

あらすじとしてはこのペパーミントの魔術師こと軌川十助には、人の痛みを視る能力があり、自らのつくるアイスクリームで、それを癒してしまう。その行いが "統和機構" の把握するところとなり…といったところで、同シリーズの他作品を読むと多少わかることもあるのかも。

ラノベというとだいたい西尾維新しか読まない(ノベルスで読んでいた荻原規子は入るかな)のだけど、読み始めた時は、あー西尾維新に通ずる達者さ!と思った。読み進めるにつれ、両者の違いはわかるようになったが。日本語でいうと西尾維新のが水、世代の問題もあると思うけど。

 

この作品の横着さというか、簡便さというのは、ファンタジーの世界観を現実らしい世界にぶつけることで、書きたいテーマを直接に書くことを可能にしているところだと思う。

たとえば主人公の肌は、薄緑色だ。それによって、彼を拾った人間が彼を世間から隠し、他人との接触なく生活させることを、読者は不思議だと思えなくなる。

このような仕掛けを積み重ねて、人が抱える痛みやそれを癒すこと、痛みと喪失、結果生じる欠落について、直接に、具体的に書ける状況が作り上げられている。ガチの創作はいつも凄い。

 

いずれにしても、ここから読み始めるのは私のような物好きがやればいいことだと思う。「ブギーポップは笑わない」の在庫が見つからなかったらおとなしく新装版を買いましょう、それか古本で買いましょう。

レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット

 

レイシズムを解剖する

レイシズムを解剖する

 

 

紙で読んだけどリンクのデフォルトはKindleみたい。公刊当時に著者がTwitterで宣伝しているのを読んでいて、読みたいなと思いながら6年近く寝かせてしまった。

本書は主にはTwitter上での在日コリアンに対するレイシズムの表明について、横断的・定量的な分析を行なったものだ。

私はTwitterが好きだし、日常的な関わりのない4,000アカウント〜をぶち込んでいる非公開リストを第2のタイムラインにしているので、差別について言及するツイートを目にすることもしばしばある。当事者による差別解消の訴えや、差別的態度の表明や、ある言動が差別か否かについての議論は、読んでいるととても疲れる。読むことが必要だと感じるから読んでいても、疲れるものは疲れる。

差別問題にまつわる多くの投稿にはそのツイートだけでは真偽がはっきりしない情報が含まれ、書いた人の感情が込められている。たいていの場合発信は断片的で、誰もが連番を振って言いたいことを全部言う連ツイを敢行するわけではない。話題を追うのにはいくつものリプライツリーを読む必要があり、場合によって既に削除された発言を検索して魚拓を探したり、ニュースサイトの初出をたどったりする羽目になる。そうして事の発端と主な論点や意見の派閥を把握し、賛同できる視座を見つけ、一定の判断をつけるのには、その話題に対するかなりの興味関心が必要になる。

その中でも、日本語Twitterにおいて在日コリアンへの言及って独特の癖があるな、性差別や移民差別の問題と違って国際社会によって糾弾されたり一定のスタンダードな対応が合意されたりもしなくて不毛だな、と思ったことは何回もあった。

なんなんだこれはと思っているところにこれを読んで、そう、私はこういう分析が欲しかったんだ、と自分の中のニーズに気付かされた。ちゃんと調べたら断定的に言えるのってこれくらいのことなんですよ、でもここだけは言えますって言えることと言えないことが弁別されている。引用元も補足も注も索引もついてる。そういうクリアさが目に沁みますね…学術書はいいぞ、全然疲れない。

(ツイッタ上のアクティビティが不毛だと言ってるのではなく、論文の精緻さは人間を癒すという話です)

分析が行われたのは2013年ごろからなので、今のTwitterの仕様では起こらないことも観測されていて、その頃が懐かしくもあり、すいすいと読んだ。

統計の部分について、私はもちろん十分な読者ではないのだけど、本書は一般の読者に向けて各研究のまとめを各章に配してくれており、在日コリアンに対するレイシズム、とりわけインターネット上での表出について関心のある人なら読んでみる価値があると思う。Twitterが好きでずっとやってる人は特に。

個人的には本書p.109に掲載されている表3.2.1 日本語版プロテスタント的労働倫理尺度と人道主義-平等主義尺度 内のプロテスタント的労働倫理(現行宗教のプロテスタントのことではない)を、自分が微塵も持ち合わせていないので読んでいる途中で私は本当にこういうところが…と思ったのだけど、調査の結果プロテスタント的労働倫理は在日コリアンに対する現代的レイシズムとは有意な正の相関を示すらしく、わはは、それなら不遜な怠け者でよいではないかと思えてたのしかった(著者はそんなことは全然言ってない)

内心である程度人をカテゴライズしレッテル貼りして "そういうっぽいひと" くらいにしておくことは、自分にとって大事じゃない人間関係にかける脳のメモリを節約できたりするので、 "そう思うことが差別、そう思ってしまうようなやつは生きてる価値のないクズ" 的な、内心の自由に踏み込めるみたいに思ってる言説には賛成できない。

たとえば、中小企業の社長が、アッでもこの部署に女性△人入れてそのうち○名が同世代でこの時期に育休かぶったら…ヒィッ…!て現時点の日本で思ってしまうことそのものを否定しきれない。それが普通でそれで回るように、それで全然大丈夫なようにするのは、その社長というよりは公の仕事だと思うからだ。その考えは確かに不当だし「なので女は入れません」と表明する/実害を発生させたなら批判され訴えられたらいいけど、私は他人の脳内を予め批判しない。

強者から弱者に向けて、あらゆる種類の権力や暴力をともなって行われる差別について、私は反対する。逆に、アマゾンで暮らす少数民族が、外部の人間を外部の人間だからという、外部の人間にとってはどうしようもない生得的な理由で例外なく遠ざけ攻撃的な態度を取ったとして、その対応は差別的な偏見に基づいているかもしれないが私は彼らに反対しない。現代社会においてどちらが強者か、あまりにも明白だからだ。

自分の中の差別に対する感触を、確かめる機会をもらえる本だった。ありがとうTwitter

赤ワインかメイカーズなら

もっと飲めるよ、と友人がいう夢を見た。

 

そんな時間でも場所でもなくて、酔っ払いのやなところをわかってる夢だなと思ったのだけど、現実にはそんなぐにゃぐにゃの状態のそのひとと一緒に過ごすことは、しばらくないだろうと思う。

江戸川乱歩名作選

 

江戸川乱歩名作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩名作選 (新潮文庫)

 

 

著作権保護が切れたあとに編まれた選集なのだけど、うち3遍は乱歩が生前に半ば自薦した選集と同じラインナップなのだそうだ。

押絵と旅する男」や「目羅博士」なんかを読んでいる間、細やかな情景や微妙な機微がかなりの執念深さで書かれているのに何度か出くわした。見たものや見たいものに対する愛が強い。彼の業績に後続作家の発見、海外推理小説の紹介、翻案が挙げられるのもわかるような気がする。表面上人付き合いがどのようであったか知らないけれど、人間への興味や執着が強く、情念のある人だと感じる。

「人でなしの恋」は満島ひかりの朗読をNHKで聴いたことがある。そのときは台所にいて画面を見ず流し聴いていたのに、随分悲しいお話をやっているなと思ってエンディングでタイトルを見たら乱歩だった。読み始めてしばらく、これは何処かで読んだことがあったのだっけ、筋を知っているなと首を捻っていたのだけど記憶に声も色も載っていたのでテレビだ、と思い当たった。

ロンググッドバイもそうだったけれど、映像や音声ってやっぱりすごくて、テキストだったら何が何だかわからないくらい小さな断片になっても、記憶として機能する。女優の顔だけでも、サビのワンフレーズのメロディだけでも。まぁ「恥の多い生涯を…」くらいになればたぶん「ほら、あの恥の多いなんとか…て始まる」くらいでイケるか…すごいな…

乱歩作品には上記以外にも夥しい数の映像化音声化作品があり、いちいち気付くのも難しいような数の推理小説内のオマージュがあり、ジャンルをまたいで多くの作品に引用されていて、今回本書を読んでみて、こういうのを「祖」というのか…という感慨が深かった。(ちなみに私が最初に読んだ乱歩オマージュタイトルは、はやみねかおるの「踊る夜光怪人」かもしれない。物心ついて覚えているかぎりでは。)

当然2021年の読者である私は推理的な部分についてめちゃめちゃに驚き慄くといったことはない。これは乱歩先生は何も悪くなくて私が読んだ順番の問題なので、そういった部分以外を楽しんだ。「陰獣」を読んでいる間は登場人物全員に怯えていた。手袋をもらった車の運転手すらおそろしげに思えたし、終始全員気が狂っているようで怖かった。

大家を捕まえてなんだけど、正しく "読ませる" 大衆作家だった。

ガーデン

 

ガーデン (文春文庫)

ガーデン (文春文庫)

 

近所にある、取置きの雑誌と漫画・文庫・新書の新刊で棚がほぼ埋まっているような本屋で買った。タイトルと書き出しで私を傷つけない内容だと確信できたので。

 

※以下作品の内容に触れます。

 

 主人公は都内の出版社に勤める30代前半の男性。発展途上国の帰国子女のため、在外時は使用人がいてプールがあるような家に住んでいた。彼の心の居場所は、大人になった今もその邸宅の広く豊かな庭で、自宅のマンションを南国の植物の鉢植えで埋め尽くしている。彼は表面的な人間関係はソツなくこなせるが、誰かと深い関係性を持つことはない。そのような人間が、自分の欲望に少し向き合えるようになるまでを描いた長編小説。

 

 

 10歳年上の作家だが、連想することと次の行に現れることがしばしば一致して、読んでいる間とても親しみを感じていた。

タナハシは大きな写真集を広げていた。プラチナとダイヤモンドで作られたネックレスが見える。花や蔦を模したクラシックなものばかり。優美で繊細なデザイン。おそらく十九世紀末に流行したガーランド・スタイルのアクセサリー集だ。

 主人公が勤める出版社の資料室で、同期のタナハシが広げている写真集の描写。これを読みながらカルティエのことを思い出していると、1ページ経たないうちに "カルティエの歴史の本" がお目見えする。

 あるいは美術館もそうだった。

先にたって門を抜け、ゆるやかに蛇行した広い道を歩きだす。道の両側に茂った木々が、その姿勢の良い背中に大きな深い影を落とした。(中略)やがて道がひらけ、ロータリーの向こうに白い洋館が見えてきた。

 これは主人公が取材相手だった建築家の愛人と歩いているところなのだけど、"蛇行した…" のあたりで私は庭園美術館を脳裏に描いていて、"白い洋館が見え" た時には、そうかやっぱり、「ガーデン」だもんな、いかにもふさわしい、と感じた。

 このデートシーンは、幾度も観覧し散策した懐かしい場所が、丁寧に描写されてゆくのが本当に心地よくて驚いた。知っていることについて誰かが書いてくれることが、こんなに面白い。

 最近pixivに二次創作の小さなお話をいくつかあげてみたのだけど、おそらく読者全員がそのキャラの造形や言動についてある程度了解しているのに、もう一度書く意味あるのかなと思って描写を簡便にしたところがあった。でもこの本を読みながら、読む人の評価はわからないけれど私の趣味としては、作中に「庭園美術館と明記されているだけ」より、「庭園美術館であることが火を見るより明らかなくらい細かな描写がされている」ほうを好ましく思うんだなということがわかってよかった。わかっていることも、どのように書くかできっと全然違う。たぶんそれが必ずそのように思い描かれて欲しいようなことは、了解されているはずだとしてもきちんと書いたほうがよいのだ。

 

京都ロケのシーン他、ずっと濃密な植物の気配を感じる文章で本当に楽しかったなぁ。植物の魅力を語らせたらこの主人公は天下一品だ。

 

 最終的にはこの主人公が、建築家と破局した愛人を追っかけるのだけど、まぁそのタイミングで追っかけられて嬉しいか?と言うくらい遅いので、うまくはいかない気がする。助けてほしかった時になんにも未来のことを話してくれなかった男の人が、自分ですべてにカタをつけたあとになってのこのこやってきても、何の用?としか言いようがないように思うので。

 理沙子さん(元愛人)が主人公のことを好きだといいなと思う。この主人公に、情を持ってくれてるといい。彼は、急に真っ向から誰かを求めたり、誰かの求めに応えたりできないだろう。彼の生身の人間に対する怯えやそれによる行動習慣は、一朝一夕のものではない。だからこれはラブストーリーとしてのハッピーエンドとは言えないと思うのだ。

 ただ本人が「僕にも欲しい人がいるかもしれない」と気づけたことがよかった、そのような、最後まで庭の中に閉じるような、庭から出る道を歩むことができるかはまだわからないような終わりだった。

 解説を尾崎世界観が書いていて、3ページ目の終わりから、この作家の作品に登場する人物たちのことを語り始めるのだけどそれがよかった。私が小説を読んで「違う脳みそが入っている」と言い表す現象のことを言っているみたいだった。尾崎世界観の小説も読んでみようかな。