表題作は2014年の芥川賞なのだそうだ。芥川賞が発表される号の文藝春秋は父がたいてい買っていたのでそれで読んだ作品もあるのだけど、その習慣が失われたあとの作品のような気がする。どちらにしても2014年だと父のものに勝手に触ることはなかったかもしれない。

小山田浩子を読んだのは初めてだった。芥川賞に選ばれているのだから純文学に分類されるんだろうと思うが、夫の転勤に伴い義実家の隣に引っ越した女性が主人公の「穴」も、二組の夫婦の交流を一方の夫視点で描く「いたちなく」「ゆきの宿」も、書いていないことを想像させるセリフや描写が多く、半分ミステリのような頭の使い方をして読んだ。

「穴」を読み進めていて、途中で出てくる子どもたちがはっきりと広島弁の言い回しを使ったところでやっと広島の夏の話か、と気がついた。それくらい訛らない人物が多くて、描かれる風物が地方のものであるのに対して言葉が標準語だと、なにか古い映画を見ているような気持ちになるのだと分かった。

 作中に方言を喋るひとが一人もいなければ、フィクションの決め事として何にも思わないかもしれないが、方言がない世界ではないらしい。しかも、その広島弁を喋る子どもたちというのは主人公にしか見えていない。何か不気味で、丁寧な女言葉で喋る女、「〇〇かい」「参ったな」のような言葉で話す男、そういうざらついた雰囲気にのまれているうちにずいぶん恐ろしい話を読まされた気がする。

 ひとつ前の彩瀬まるに続いて、幻想的に描かれる夢やらなにやらを(ときにはメタファーとして)読んで味わう恐怖ももちろん鮮やかだが、それらを含んだ生活、続いていく人生の方からは「あるある」の匂いがするのがより恐ろしい。人間はボケた義祖父を見なかったことにするし、死んだ兄を存在ごと隠すくらいのことはやる。悪意や決意ではなく、仕方のないこと、あるいはなりゆきとして、平々凡々の人間も、大きな秘密をそのままにする。ほかにしようのないなりゆきなんてよくあることだけど、読んでみるとこんなに重たく感じるものなんだな。

短編としてすきだったのは「いたちなく」で、落語みたいに綺麗なオチがついている。わかりよくキマっていて、そういう短編をすきだなと思った。