明るい顔もそれなりにする

って言ったのは概ね嘘で、かなり希望がない。希望がないというのは光が見えないという意味でもあるし、自分の欲がちょうどよく表明できる形をしていないという意味でもある。

 昨日は「落下する夕方」の映画を見かけてやめた。健吾も梨果もわからないでもなかったのだけど、華子に対して違和感がある状態が続いて、彼女が死ぬシーンが決定的に解釈違いなのではないだろうかという恐れが勝って一旦箸を置いた。杞憂だといいけど。

 会いたい人間には会えないし、一緒にいたい人間とは一緒にいられない。それがわかっていて、幸せに暮らすための細かな努力に費やす体力が、身のうちのどこからも湧いてこない。自分を大切にしなさい、というのはよく言われてきたことだし、今ならその意味はわかるけど、わかるから完全にそうしたいかというと全然それとこれとは別だと思う。お風呂に入ってよく眠って、体力も神経もある程度回復させたとして、その万全な心身は毎日元気に仕事に通うためのものでも、まだ見ぬ大切な誰かに出会うためのものでもない。費やしたいことのためには費やせない健康がただ浮いて余って、贅沢かもしれないけど虚しいことだなという予感がする。その浮遊に耐えられる気がしなくてあまり元気にならないような生活を続けているのかもしれない。