小春日和

 

主人公は大学に入りたての女の子、桃子。一風変わった友人花子と出会い…たいして何が起こるわけでもないのだけど、ある種のシスターフッドの話で、この目白四部作は読もうと思う。この頃にビッグボックスがもうあったことに驚いた。ギリまだないくらいかと思った。

文章が時代を感じるケーハク体なのでアレルギー出る人は読めないけど、それを愛せるひとなら大丈夫。刊行は1988年で、生まれる前の本は安吾ぶりだ。気分としてはユーミンやサザンを聞くのに近い。まぁこの本に出てくるのは古内東子とかなわけだが、ちょっとスノッブな、あるいはオリーブ少女的な引用が沢山、若干教養主義のきらいがあるかもしれない。教養主義は基本的には悪いことではないと思うけど。(ここでまたしてもロラン・バルト『明るい部屋』の引用を読むとは思わなかった、もういっそ引用だけで全部読めないだろうか。)

主人公の叔母は作家で、作中にいくつか作品が挿入されている。作中作にはなるのだろうが、忽然と全文が現れるので、ほんとうに、差し挟まれているかんじだ。そのうちのひとつから、もし読者だったらこの人の本をもう一冊買うかもなと思ったところを引いておく。

「ひとはいつも愛するものについて語ることに失敗する」としても、だからこそ、私は誰かが何かを愛してしまうことと、それを語ることに失敗することへの物悲しい歓びに共感するために、バルトの本を(バルトの本も)開いてみるのだ。なにしろ、私たちは、そもそも本というものを記憶の歓びのために読むのではないか。

まず恒例のバルト読むかーをやって、それから、記憶の歓び、について考える。本の中に出てくる、自分の知っているもの(ビッグボックスとかね)を読んでそれを知っている、と思うのは浅はかなことではあるけれど、一方でこれにもう一度会えた、あるいはこの人もこれを知っている、この人が(私のために!)書いてくれている、という素朴な喜びをもたらすことでもある。

記憶よりも純粋な形で取り出せる歓びがあるか、という問題もあって、まだ何にもわからない中をおよいでゆくような桃子と、疲れや諦めを知っているおばさんではおそらく意見が違うだろうと思う。そういう世代や背景の違う女性たちが何人も描かれる中で、じゃあ私は、とつい思うような本だった。じゃあ私は、と思うのは結構楽しかった。