踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ

踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ

踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ

  • 作者:佐々木 中
  • 発売日: 2013/08/08
  • メディア: 単行本
 

 

佐々木中読みたいんだった〜と思い出した時に装丁と発行年で選んだのだけど、幸いにして読みやすかった。講演の記録と、対談が主で、論考はいとうせいこうの小説についてのものが一本。

この本一冊を読んだことをもって佐々木中読んでるよーというとイマジナリーインテリズに袋叩きにされてしまうのだが、かと言って積読の景色を見るに続けて佐々木中ばかり読むわけにもいかないようなので一旦何か書く。

  • 震災から1年そこそこしか経っていない時期に書かれている

始めに発行年と言ったのはつまり東日本大震災よりは後に書かれたものを最初に読みたいと思った、という意味だった。私はいつもそれより前とそれより後を全く同じ世界としては扱えないので。その意味においてドンピシャだった。

この本には「疵のなかで疵として見よ、疵を」という現代アートのイベントでの講演録が入っている。写真論だ。まずは写真が時間芸術である理由が三つの側面から語られ、心的外傷によるフラッシュバックとの相似から、イメージとは、真理が要請する覆いとその裂け目である、と捉えただけでは用が足りず、端的に疵であり、疵の発生時から未来に託されて残るものであるというところまでを一息で駆け抜ける。(読んでとしか言いようがない)

そして話は東日本大震災とその影響によりわれわれは大なり小なり傷つき疲れていることに至る。

われわれが負ったフラッシュバックを伴う心的外傷を認め、それを認める恥辱をわれわれ自身の手で贖うために戦うことについて彼は話していて、私はそうか、その大小多様なイメージ、つまり疵が間断なく開き続けるような10年弱だったのかもしれない、と考えていた。来るべきときのために託され残された無数の疵。まだ開かないものも、届いていないものも、見つけられないものも、失われたものも沢山あるけれど。

そして第二次世界大戦開戦時の、日本の政体の話が出てくる。彼らはジリ貧である自らの弱さを耐え、苦しいところを我慢して好機を待つことが出来ずに、真珠湾攻撃へと雪崩れ込んだ。

正直に言ってオリンピックの開催準備にまつわるいくつかの行いがまさに「ジリ貧よりドカ貧を」の、弱虫の、腰抜けのやることだったのではないかと思い返していた。先行きによっては私はこれからも腰抜けのやけっぱちに付き合わされることになる。今後コロナ禍の対応がよりやけっぱちになっていく可能性もある。具体的な政策のいちいちについて自分に関係があることとして闘争したい気持ちはほんとうにミリもないし、投票してたまに官邸に思ったことをメッセするくらいのリソースしか割か/割けないだろうけど、あのやけっぱちが弱さに由来するということを、我慢ができないガキのやることだということを、さも私が最初から全部わかっていたみたいにわからせてくれる気持ちのいい文章だった。 

  • お気づきだろうか

何かを読んだ時、何を連想し想像を巡らせるのか、どれを自分の体験や知識と結びつけ、どのように疑問を抱くのか、というのはかなり大切なことだ。

そして、危ないのは、私は佐々木中にほとんどなんらの疑問もさし挟むことができないということだ。基本的にずっと赤べこの動作でわかるわかるわかるー!何それ本当に講演で言ったの?やべーなかっこいいー!と思っている。彼が選挙に立候補してわりとヤバめの思想をパッケージして演説してたとしても、語りが気持ち良すぎてうっかり票を入れかねない。

第一には佐々木中が政治家を目指さなくてよかった(まだ政治家のほうが怖くなかったのではというアレはアレする)。第二には彼が私の観測範囲においてはかなり人気なおかげで、私は「メジャーな人は私がライブいかなくても食ってけるじゃん?」精神を今の今まで発揮しており、震災後の不安定な時期にリアルタイムで熱狂しないで済んでよかった。静かに著作を遡って、多少なりとも読めるようになりたい。

  • おわりに、ちなみに

ちなみにここから何を芋づる式で読むか、ということについて、今回の場合はそうかーロラン・バルトの「明るい部屋」は読まないとどうにもなんないか…と思った。この書籍については学生のときからあちこちでかなり長い引用を読んでいるせいで改めて買っていないのだけど、そのような読書を重ねてるなら門前のおばさんになる前にとっとと読んだらよかったのだ。その他紹介されていた漫画といとうせいこうの小説は順番が来たら読むだろうと思う。しかしこんなペースじゃ一生分の読書時間が埋まるのも時間の問題で、その意味においてだけ人生は短いなと感じる。