深夜特急

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何も全巻貼らなくて良かったかな。でも私が買ったこの新版は一冊が300ページないくらいのちょうどよく薄い文庫本になっていて、平野甲賀の装丁も、使われてるカッサンドルのポスターもカワイイから、物体としていい。おすすめ。

「最近読み返したけどやっぱり良かった」と友人が教えてくれたのだけど、10冊からの本を積んでいるのが私の常態なので、しばらくして順番が来たら買うつもりでいた。でもまぁ家にサラの本を山と積んでおいて出先で本を切らすのも私の十八番であるので、このシリーズもそのような成り行きで先頭に割り込むことになった。

内容的には著者の沢木耕太郎がタイトルに書いてある場所を旅して思ったことが書いてある紀行文で、私は安全な場所で読んだり見たりする異国の話が大好きなので、読み始めたらあっという間だった。食べたものや乗ったもの、その当時の価格がいちいち書いてあるような臨場感と、作者がちょっとした出来事をきっかけとして落ち込んだり腹を立てたり何かに思い至ったりする唐突さが、他人の目を借りる愉しさを感じさせてくれた。

各巻の最後に、著者とゲストの対談が収録されていて、第一巻に高倉健、最終巻には井上陽水という豪華さで全て面白いのだけど、第四巻に収められている今福龍太との対談の一節が印象に残った。

今福 「たとえば、いわゆる未開社会と言われてきたような世界は、われわれがロジカルにしか回収できないものを、言語以外のストレートな回路で表示できる、さまざまな手段を持っているんですね。アメリカ・インディアンが自分の感情を一番厳密に表現したいと思ったら、言葉なんてまったく不要なわけで、それは火を焚いて踊るという形かもしれない。」

沢木 「よく分かりますね。それは。」

話題は言葉による理解の限界について、というところなのだけど、最後がいい。自分の感情を一番厳密に表現するときに、火を焚いて踊ることになる、そういう育ちや文化があるだろうなぁと思う。それがあっさりと「よく分かる」ようになるような旅が、この本には書き綴られていたのだ。本当にそうだったと思う。

あとは関係のない話。

私はこの部分を読んで、愛情表現を "しない" せいで恋人を寂しがらせるのは基本的にダメだと思うけれど、愛情表現の仕方は沢山あるよなぁ、という話を思い出したのだ。

愛情は、伝えたい相手以外にわかってもらう必要はない。状況によっては愛している相手にすら、すべてを伝える必要がない。ただ、いざそれを表現する際にはある程度各人の創造性が源となる。だからこそ、相手を喜ばせるために相手の望む方法を取り、求められる表現だけをすることは、その人がその人であるために、ためにというのはつまり理由と自己同一性の両面から、難しいのではないだろうか。

表現方法が折り合わず、通じなければ仕方がなくて、方向性の違い、解散、ということになる。逆に言えばハタから見ていてなんのことだかさっぱりな表現であっても、伝えたい相手に伝わればなんだっていいのだ。奇抜な色の羽を見せびらかしながら踊るとか、ちょっと眉を顰めるとか。

だから人間関係においてわれわれが問題にできるのは、多くの場合愛はあるか、愛とは何か、という哲学的な問いではなくて、相手がそれを信じられるように伝え合うことができるかどうかなんじゃないかと近頃は感じる。もっとも私は限界まで夢見がちなので、心を込めて、でも自分の踊りたいように踊っておいて、「私が何を言っているかが理解されるとは思わないが、踊るのでそこで見て、あわよくば愛があることくらいはわかれ」と思うような傲慢さを、愛を持ってしても手放せない。私が説明したいのが駅までの道順なら、喜んで相手がわかる簡単なゼスチュアを使う。でもこと感情の表現に関して、その簡略化は本当に相手のため、ひいては自分のためになるだろうか、と訝しんでいる。

手段に私と同じ踊りを選んだ挙句に踊りの流派が近いような人間とは通じやすすぎて距離が取れないし、逆に、愛はあるよと言って何やら絵を描いててアトリエから2年出て来なければどんなビッグラブでも付き合い切れない。主観的には、愛する人間を選べることはほとんどない。通じてしまう、というのが近い。

そもそも愛がなんらかの形で表現されんとしていることを私が感じ取れないときは、残念ながら私に取ってそんなものは無かったのと同じになってしまう。でも、たまたま我々は伝わる言語で話せなかっただけで、あなたの内部には確かにそれがあったということ自体は誰にも否定できないのも、事実なのだ。

そして、自分の内部の問題として、たとえ相手に伝えなかったとしても、それを一つも表現しないまま愛をやり過ごすことはできないのじゃないかと想像している。縁もゆかりもないような場所で空を見上げるだけだとしても、タバコを変えないだけだとしても、そのような独りよがりなしに、私たちは自分の内部にある愛を認識できるだろうか。まったく発露する必要のない愛を、私はやったことがない。いつかそのようなものを抱くことがあるだろうか。

今のところは、せいぜい自分が「踊れるやり方で、踊りたいようにしか踊れない人間」だということを受け入れたくらいの地点にいる。それでも結構遠かったなと思う。