サロメ

 

サロメ (文春文庫)

サロメ (文春文庫)

 

 

押しも押されもせぬ我が家の作家買いリスト筆頭、原田マハの「サロメ」を読んだ。読んだあとならこれ以外にタイトルのつけようもないことはよくわかるのだけど、今のご時世原田マハでもなければこのタイトルは許されないんじゃないかな、などと思った。タグ作るにも検索するのにも不便すぎる。まぁたぶん今は他のサロメを検索する人がそんなにいないのかもしれないけど。

  • あらすじと感想

物語の主人公はオーブリー・ビアズリー。ワイルド「サロメ」の英語版に挿絵を付けた画家だ。語り手はオーブリーの姉、メイベルで、主としてオーブリーが画家としてデビューする前後から結核で亡くなるまでの5年間にスポットライトを当てている。

すごく面白い音楽漫画みたいなもので、この本に掲載されているビアズリーの絵は表紙の一枚だけだ。絵を載せずに、その魅力を書いている。ほとんど一気読みに近い形で読み切ったのだけど、図版がないことは、読者をストーリーにのめり込ませるために一役買っていたと思う。図版を見ながらこれがこうで、とやっていたら彼が落ちていった地獄に読者を引き摺り込めなくなってしまう。この本は19世紀イギリスの画家について読者を啓蒙するためではなく、彼とその運命を狂わせた作家、オスカー・ワイルドの虚実入り混じる物語を、ひとときの夢として語り聞かせるために書かれている。

私はワイルドのサロメを読んでいるのもあってこの本においてはあの作品が持つ狂気エネルギーが再利用されているのがわかっていて、語り手メイベルの恨み深い愛についてもそうでしょうそうでしょう、と思って読んだが、逆にこの本の纏っている後ろ暗い情愛の気配に感応してワイルドのサロメを読む人もいるのかもしれない。

  • 解説もいい

取材の分厚さと描写の熱狂ぶりから私が連想していたのは中山可穂だったのだけど、解説は中野京子が書いていて、本編のあとその名前を目にした時には「あーたしかにそれならそうだよな」という感じがあった。この2人にはお互いがお互いのファンであってほしいような気持ちがある、どうせファンもドン被りなのだし。

  • 読書体験をつなぐこと(以下本の内容と関係なし)

本が本を呼ぶのかわからないのだけど、たまたまユイスマンスの「さかしま」を読んで間もない時期だったので、彼の名が何度も出てきて不思議な気持ちになった。19世紀末のパリは頽廃、デカダンス。覚えた。だからといって私が「さいはての彼女」を貸して以来原田マハの新刊を切らさなくなった本書の購入者たる母に「ついでにユイスマンスも読む?」と貸す気持ちにはならなかったけど。母は現在私よりも気合の入った労働者で、少ない余暇を楽しむために活字を追っている。読むためにある種の根気がいるような本をすすめても仕方ない。でも一応聞いてみようかな、たぶん遠慮されるだろうな。

  • 古典を読むこと、あるいはなけなしの文化資本

古典を読むことを、何か偉いことのように思う人がいるかもしれないけど、暇を持て余した人間が噛み応えのあるコンテンツを求めているだけの場合はそれは全く当てはまらなくて、私が古典を読んでいるのも大方その類だ、残念ながら。それでも父母はそういった趣味を現在は持っていないであろうこと、私が中年に近づいても各国の古典を読みかじることを思うと、内容や表現のとっつきづらさ分は両親が私に必死で履かせた下駄のようなものかもしれない。国立大を出た地方公務員の夫婦が、数学の出来ない娘を意地で都内の私学に出した、そのことで私が履いてる下駄はかなり高いだろうと時々思う。もちろん社会的に私が手に入れたものの話ではなくて、有り金を文化資本に突っ込んでもらった感覚がある、という話。共に自営業の家の子なのによくもまぁ娘にあんなに本を読ませてくれたものだよ。採算度外視の出血大サービスだった。

  • それでも足りなかった話

一般の読みものを幼いときから読むことにはもちろん効能がある。物語に感情移入することで現実から避難できたり、知識を蓄えられたり、日本語の読解力が高まったりする。

でも、大学以降の高等教育において大事なのは本を読んで内容を理解することではなかった。私は「まだ読んでいない本が沢山あるし、全部読む時間はないし、既に書かれていることについてどのレベルで確認すればいいのか誰も作法を教えてくれないのに、論文なんてどうやって書くんだろう」と思ってる間に、優しいカリキュラムのおかげで卒業できてしまった。そして自分で研究をしたいから院に行こう、とはついに思えなかった。どちらかと言えば、ずっとずっと一般教養科目で世界中の面白いお話を聞いていたかったんだなと今でも思う。

  • 私が今から増やしたいもの

私自身は子を産まないだろうけど、さらに無形の文化資本を増やして次の世代に渡すなら、小説以外の書物の読み方をもっと早くにほのめかして、自分で学んだ知識に基づいて何かを実行すること、自分の意見を表明して人と話し合うことの楽しさを見せびらかすだろう。

学部生の間にはそういう自身の行動に結びついた学びに辿り着けなかった私が今まだ欲しいのは、自分を世界に位置付ける知性だ。私が一生のうちにやり切れるだろうことの小ささを分かった上で尚それを行うことに納得できるような、自分にとっての無限の意味を見つける、その判断の素地になる思考の網の目。他者から見た途端に意味が有限になってしまうことは薄々分かっていて、それでも自分がここにいてそれをやりたい、と思えるようになりたい。

その為には不完全で主観的であっても、自分から見たこの世をある程度意味づけ、見えない部分を思い描いてみる必要があるんじゃないかと思っている。私はそれを、自分で何かをやってみて手応えを確かめ、返ってきた反響に耳をすませる、その繰り返しと共にやっていきたいなと思う。もちろん読書がその一つの手段になることもあるだろう。

世界を全部知ることはできないし、全部知ったところでやる気は出ないだろう、ということかもしれない。何かを自分のために選んで取り組んで飽かず腐らずやる気を出せる、それだけの賢さが欲しい。

今うるせえ御託並べてないで働けって思った?でも、働かなくたってまぁ死にはしないような環境下で、それでも死なないためには、たとえば幸せとかじゃ全然足りないって最近思うの。ちょっとした病や傷を得たとき、どこかが痛いと生きるのに集中できるな、とか思っている場合ではないはずなんだよ。