はちどり

はじめに

2月の頭に「ロマンスドール」を観たのを最後に劇場へは足を運んでいなかったのだけど、久しぶりにスクリーンで映画を見た。集中力をコントロールするのが下手な私にはやっぱり映画館というシステムは助かる。上映時間中、絶対にTwitterInstagramも開かずに済む。無くしたくない習慣のひとつ。

映画「はちどり」予告篇

以降ネタバレ

 

冒頭

主人公の少女ウニが家に帰り着いて、彼女が住む団地の全景が視界に収まるまでがすごくて、ウニが置かれている環境、受けている抑圧がどのようなものかが端的に映されている。あの白く平板な建物の連なりにうっすらと感じた恐ろしさの正体を、順々に確かめるような映画だった。

音楽

この映画の映像にはほとんど隙が無いように私には見えていて、愛嬌になっているのは音楽だと思う。1994年の設定による制約もあるとは思うが、ウニがボーイフレンドと初めてキスをした後、居心地の悪いポップスが流れ始めて、それがキスシーンの気まずさにあんまりぴったりで笑ってしまった。辛うじて声は出さなかったけど、思春期のどうしようもない不格好さがフラッシュバックしてつらかったな。自分の記憶を "甘酸っぱく爽やかな青春" にうまいことパッケージできている大人なら大丈夫なのかも知れない。

そのあとも数回、何かが上手くいっている時に音楽が前に出てMVみたいになるところがあって、音楽自体がいわゆるK-POPブーム以前の歌謡曲なのも相まってかなり異文化感があったのだけど、あれはなんだろうなぁと思う。インド映画やサメ映画を見るときにもジャンルのお約束がわかっていた方が楽しめそうだなと思うのだけど、それに近いなんらかのリテラシーが私に足りていない感覚があった。

虐待と暴力

この映画では90年代当時の韓国家庭における家父長制とその罪禍がかなり克明に表されているのだろうと思う。ウニは兄に殴られるし、父に怒鳴られて外に出される。ウニの同級生も家庭で虐待されていて、そのせいで彼女たちが失うもの、手に入れられないものがあまりにも多かった。二人で万引きをしようとして捕まった時、親友がウニの両親がやっている店を白状してしまい店主に電話をされるのだけど、電話口に出た父親は賠償せず、「警察に突き出せ」と言って対応しない。店主に哀れまれてそのまま帰されるウニたちの寄る辺なさは、よくある反抗期の思い出として当然に乗り越えられるような種類のものではない。

希望として描かれるのは漢文塾の教師であるヨンジで、彼女はウニからは自立して恐れるもののない大人に見えているだろうと思う。タバコを吸う不良だけど、"いい大学" に所属していて優秀な、自分と同じ左利きの、変わったお茶を淹れて自分の話を聞いてくれる、美しい先生。殴られたら立ち向かいなさいとヨンジに教えられ、兄に殴られて破れた鼓膜を診た医師に「診断書が要るか?証拠になる」と手を差し伸べられて、ウニは自分がされていることがただ耐え忍ぶべき仕方のないことではない、と気付いてゆく。家庭や学校という閉じたコミュニティの外から差し込む幾筋かの光。この映画においてそれは唯一の主題ではないけれど、2020年になってもなくならない差別と抑圧に、自分の人生を分捕らせないための力を、彼女は得るだろうという予感がある。母親の戦いより、娘のそれの方が "マシ" になる予感。

(それにしてもウニが手術をすることになったとき、傷が付くと言って男泣きに泣く父親に、家庭の女子供を自分の所有物と見做す意識が透けて見えてしまうのは痛快だったな。泣いている父親は検査の結果に従ってきちんと大きな病院に付き添い、心から娘の心配をしているだろうに、子を愛し彼が考える親としての責任を果たすことと、子を一人の人権がある人間として尊重することは、質的に別のことだとわかる。私たちは犬に首輪を付けたまま犬を愛することができる。)

共有される事件、あるいは物語

この年実際にあった橋の崩落でヨンジは死ぬのだけど、ヨンジを殺さなくても作品を成立させる方法はいくらでもあっただろうと思う。だからその死が不要だったという話ではない。この映画において、見た目だけが良いものの脆弱さとその崩壊の象徴ないし暗喩としてこの事件を読み、ウニの姉ではなくヨンジが死んだということに意味を見出すのは簡単だ。でも私は、実際に橋が落ちたという事実の前に、もう少し静かで情けのない無常を噛んでいたいような気持ちになった。彼女が選ばれて殺されたわけではなく、ただ死んで、それが彼女の母親やウニにとって取り返しのつかない喪失であること。

歴史的な事件を物語として消費することの下品さを省みた。東日本大震災を、この感染病の流行を、自分の感傷のために消費したことはないか。自分の脳みそに記憶を格納するために事実を消化することは必要なのだけど、夥しい死や人々の苦しみそのものに意味を載せることは、品の無い行いだと思う。やったことがある感触がするが、この先やりたくはない。

観たもの

そのように無常である世においてウニが過ごす日々が、どのように美しいかということについて、この映画は説明を必要としない。地下のライブハウスで、誰もいないリビングで、親友とトランポリンの上で、繰り返される羽ばたきに、私は何を観ただろう。

わかったフリと感受性マウントを排して出来る限り有り体に言うと、"刹那と永遠" 様の概念になる。その瞬間が跳ぶ/飛ぶ者にとっての必然で、宙にいる間は今が全てで、それで終わりだと信じられること。

一方観る者としてはあれをこそ秘すれば花と呼びたいとも思う。現実の韓国における種々の社会的な問題が通底するこの映画にあって、眺めている間眺める者の内心を自由にする花鳥風月であり、周囲がどうであれ確かに在る命であった。それを見せるだけで殊更に言い募らないのに、観客は発散されているエネルギーにきちんと気付くことができる。

おわりに

構図がとにかくずっと天才とか、ヨンジの内面とか、ウニの他の家族やボーイフレンドについてとか、男性陣が受けている抑圧とか、韓国語自体、あるいは韓国における漢字・漢文の役割への興味とか、ベランダと植物と水槽とか、書き始めればキリがないだろうけど目次だけ並べてやめておく。

いずれにしても撮ったキム・ボラ監督にはかなり広い視野で、かなり高い解像度で問題が見えているのに、決して絶望する気がないことが伝わってきて、根本的なタフさに励まされた。きっと次の作品も怖がらずに観るだろうと思う。