日本のヤバい女の子

 

日本のヤバい女の子

日本のヤバい女の子

 

共感の嵐である。どうも私が日本のヤバい女の子です。

かぐや姫や織姫など、昔話に出てくる女の子たちについてのエッセイ集なのだが、読む間ずっと、そうなの、あの時わかってもらえなくてつらかったの、つらかったのに頼れる人はいなかったし、お願いは聞いてもらえなかったし約束は果たされなくて、気に食わなかったから殺したの、殺したらもう殺すことしかできなかったの、私そんなにひどいことした?信じて待ってたのに、うんありがとう大丈夫、今はそんなに悪くないの、あなたみたいに私のこと覚えててくれる人がいて嬉しい、本当にありがとう、と思っていた。みんなそうなると思う。

私が著者とまぁまぁ概ね同世代でサブカル生まれインターネット育ちなために親和性があるのかもしれないが、とにかくゴクゴク飲めるしスイスイ入る。勢いよく本当のことばかりが迸っている。私の女友達でまだ読んでいない人がいたら全員読んで欲しい。ここに書かれているのは、かつての日本のヤバい女の子たちへの渾身の読経であると同時に、いわゆる "今を生きる私たち" をふるふると力づけてくれる、女のための語りでもあるから。

この本を買ったのは2018年の6月だった。同7月1日に行われた著者のはらだ有彩さんと岡田育さんのトークイベントに間に合うようにamazonに届けてもらったのに、新幹線の中で読もうとして持っていくのを忘れてそれきりにしていた。トークイベントには新刊を読まずに参加したけれど、それでもすごく面白かった記憶がある。神戸と、女子校の話。随分おぼろげになってしまった。

結果的にはあの時読まなくてよかった。当時私はかなり死にそうで、大体のことがどうでもよかったから、あ、これなら私死んでも大丈夫だな、という学びを得てしまった可能性が捨てきれない。

今も大抵のことはどうだっていいけど、例えば今何らかの腫瘍が見つかっても、それがいつ頃からあったはずのものかという質問は、ちゃんと後回しにできると思う。まずはステージだとか治療法だとかを質問するまでもなくふんふんと聞くだろう、たぶん。不謹慎な例えで申し訳ないけど、余命より自分を何に殺させるかが大切な時があるし、この本はそういうタイミングで蛇とか鬼とかになるヤバくてふつうの女の子たちについて書かれた本なので、影響されたら大変なことになるところだった。今なら読んでも普段通りに泣くだけで済む。でも今の私だって死にそうだった私の続きだから、"君を不幸にできるのは世界でただ一人だけ" というスピッツ『8823』の歌詞を引くまでもなく、何のために不幸であるかは私が選ぶ。もちろんあのときより少しは余裕ができたから、もっともっと選んで、行きたいところへ行く。

変わってしまったこと、変わらなかったこと、あるいは変わらないという状態に変わったことによって、誰かと永遠に別れてしまう。それでも当分生きていかなければならない。あの思い出を反芻しているのが世界で私一人だけでも、心臓は脈打ち、足のばねは強く跳ねてしまうのだ。

命とヤバい女の子ー八尾比丘尼

前略)彼女はわざわざ音を立て、お米に灯籠を提げさせ、物理的に徒歩で移動している。A地点からB地点へ移動するのは、B地点に渇望するものがあるからだ。「欲しい」気持ちがなければ誰も移動なんて面倒なことはしないだろう。移動は恋であり、野心である。自らの意思で目的地へ移動する彼女は、とても恐ろしく、フィジカルで、ラディカルで、パワーフルだ。

靴とヤバい女の子ーお露(怪談 牡丹灯籠)

まさに私であったり、私の鏡であったり、引用する部分を選びきれない。はらだ有彩さんは女の子ひとりひとりについて、 "現代を生きていたらどうだったか" や、"物語のあったかもしれないその後" を沢山考えてくれていて、そのことにとても救われた。あるかもしれないその後を生きられるかもしれない、かもしれない、ひょっとしたら。

参考資料もきちんと載っているので、特定の女の子に興味を引かれた(≒恋に落ちた)場合は学術書まで追いかけることもできる。著者による挿絵や、書籍全体の装丁含め物体としてもダサいところがなく、本棚に置いておけることが嬉しい一冊だなと思う。この本だけはいつでも私のことを考えていてくれるような気がしてさみしくない。