そうはいかない

 

佐野洋子を読んだのは初めてだった。ショートショートが33篇、中編が1篇まとめられている。このタイプの本は私にとって通常読みやすい方ではない。長編育ちが祟ってなんであれ一旦は通読する習慣なのに、一つ読み終わると集中力が少し切れてしまうし、次の一つの世界に入り直すのに体力を使うからだ。本来こういった掌編を集めたものってパラパラして気になったものから読んだっていいはずなのに、不自由なものである、であるもクソも自縄自縛しているのは私なんだけど。さておき、この本に収められた小説たちは、読者にいちいち "世界に入り直す" といった大仰な作法を要求しない。鮮やかに切り取られた生活、人生、ドラマのワンシーンをパッと見せて、パッと終わる。パッパッパッパっと切り替わるスライドに目を奪われていると、あっという間に中編『或る女』に到着してしまうのだ。ところどころ挿入される本人による挿絵もこの掌編たちが持つゆるやかな一体感に寄与していると思う。

『あのひと』『泣かない』『こっちは段々畑、ずーっとね』は特に好きだった。最後のは私が高村光太郎の智恵子抄に入っている『あどけない話』が好きなのと関係している。私は人間が脳裏に描くほんとの空のことが好きなのだ。この話に出てくる墓はとても眩しくて、目を細めたくなる。

「あああ。困ったものねえ。でも、あの田舎のお墓よかったわあ。生れた家の柿の木が見えて川が流れていて、日当たりが良くて、毎日キンセンカや桔梗の花さしてもらって。どんなしがらみも、山見て川見て、飛んできたカナブンの音聞いて、骨なんか静かに溶けてなくなって、それでも山があって川が流れていて」

このあとがもっといいけど皆さまの読む楽しみを取っておく。

もうひとつ、最近Twitterにもブログにも気に入って書いていた比喩が、30年以上も前の佐野洋子の作品に完璧な形で存在していて、感動したので引く。中編の『或る女』より。

マチコには愛も貞節も欠落している。あるのは打算と火花のように持続しない情のかけらである。打算を押し通すには、頭脳の一貫性が欠け、情を育むのには、むら気すぎる。そして一片の悪意もない。打算も火花のようにとび散る情も普通の人間は誰でも持っているが、何とかひた隠すのであるから、我々は、他人のそれをあからさまに見る機会を与えられないが、マチコは節分のようにまき散らす。私はそれを見ると、我が身にもあるエゴイズムを点検する機会に恵まれる。あるいは、私に与えられた愛を死にもの狂いでも守り通そうとふるい立つのである。

この作品においてマチコなる人物の "情" がどのように書かれているかというと説明するのが難しいのだけど、いきなり石油王に嫁ぐような行動の突飛さや性格の奇妙さに比して、そうであるならそうであろう、とでも言いたくなるような自然さ、本物らしさが感ぜられるのだ。おそらく、私たちにはよくわからない形をしているようだが、察するに愛はあるんだろう、と思わせる。

当然ながら情があるからと言って情が人生を何とかしてくれるわけではないので、マチコの行末が傍目にはある程度みじめたらしい可能性は大いにある。ただ、彼女の見栄や自意識が随分偏っていることが各所で表現されているので、マチコはそんな些細なことはきっと全然気にしないんだろうなと思える。とにかく読者はマチコの心配なんかする義理がないのである。明るい気分のまま読み終えた。

なお、最初に言うと感想文書くのがむなしくなるので言わなかったが解説が江國香織だ。当然のようにこちらもぴっかぴかに綺麗なので読んでみてほしい。