風花

 

風花 (集英社文庫)

風花 (集英社文庫)

  • 作者:川上 弘美
  • 発売日: 2011/04/20
  • メディア: 文庫
 

 

この本の表紙には有元利夫の立体作品の写真が使われていて、それに惹かれて買った。彼は早くに亡くなったのでもう作品が増えることはないのだけど、何度でも見たいと思う作家の一人だ。今頃はBunkamuraで展示がある予定だったらしく、あったらよかったと思う。庭園美術館で彼の作品を見た時の、静かな、不思議な心持ちを思い出しながら読んだ。

ざっくり言えば主人公ののゆりは結婚8年目で夫卓哉の不倫を知り、そのあとなんやかやあって別れを切り出す、というお話なのだが、本人がショックなことに対して反応が遅れてやってくる気性なので、私もなんとなく遅れているうちに何百頁も読んでしまった。

言語化される感情が極端に少ないせいで、相対的に彼女の行動や所作が語ることが多い。この作品に登場する他の人たち、つまり歳が離れていない叔父である真人や、資格学校で一緒になった瑛二などに対するのゆりの態度と、彼女にとっての懸案事項であったであろう卓哉へのそれの違いが、関係性の違いを見えやすくしてくれる。

たとえば、のゆりは瑛二には何をされても対して動じないようで、手を繋がれても避けそこなったしまぁいいか、くらいのものなのに、別居後隣に並んで歩くのを遠慮して不自然に離れる卓哉に対しては "並んでいいから。" と腕を軽く掴む。逆に言うとほとんど総てがそのような形で書かれていて、まどろっこしいのが嫌いなひとには向かない。

ただ他人に向かって表出することは少ないがのゆり自身の感性はわりあい "変わって" いて、まどろっこしいゆえのおもしろみはあちこちに見つけることができる。例えばホラー映画に凝っている時の彼女の考えはこんな様子である。

ゾンビになって、しばらくたって、どうということのない、ゾンビとしてのごくまっとうな日常につるっとすべりこんでしまえれば、平気。でも、ゾンビにまだなっていない、今このときのわたしは、とりあえず、ゾンビの日常をおそれるわけなんだな。

これは私の好きなところだけれど、彼女にはわりと切羽詰まった状況で呑気なことや場にそぐわないことを考えているようなところがあって、職場でイラつかれたりしないか心配になってしまう。私よりはおとなしいぶん角が立たなくて世渡り上手なのかもしれないけれど。

のゆりの考えることのほか、私が特に楽しんだのは食事のシーンだ。どんな状況であっても登場人物が何かを食べるシーンが省略されず、それがとてもいろいろなことを表現している。夫の不倫相手と食べた中華、大学の先輩と行った沖縄で飲んだ泡盛やカクテル。それぞれの食事がのゆりに味わわせた感興や心情の変化が、物語をつなぐ緩やかな結節点となっている。食事でなくとも食べ物が関わる描写はとても豊かで、夫の転勤前に訪ねてきたのゆりの実の両親は "食事時をはずし、自分たちが持ってきたケーキを食べると、すぐ帰っていった。" この一文に彼らの結婚後の娘に対する考え方や遠慮深い人となりが表れていると私は思う。

人物や情景の描写の間にも、のゆりの心情や作中の季節は移り変わり、彼女は暮らしやパートナーについて選択をすることになる。選択をするのはのゆりだけではない。この作品に登場する人物には天才も連続殺人犯も世捨て人もおらず、全員それなりにありふれた設定なのに、それぞれの人生はきちんと深刻かつ複雑で、彼らも苦しい中で何かを選んだり、捨てたりする。読みながら息が詰まるような心地がして、私はこのようなことから普段逃げ回っているのだなぁということを思い知らされる。恋愛、さらには結婚、子供、親戚。どれにも魅力があるのだろうけれど、それがあるために事態が複雑になってしまう類のものごとでもあると思う。のゆりは一見現実忌避的に見えるかもしれないが一つ一つの出来事を受け止め、ゆっくりではあるが消化していく。もしもこの先私が不本意ながらも人生の荒波に立ち向かうべき時が来たら、のゆりが自分の心を確かめるゆっくりさを思い出したい。ゆっくりだって捨てたものじゃないはずだ。そのように信じている。