初秋

 

 

80年代アメリカのハードボイルド小説、私立探偵物。知人が好きだと言ったので書棚に積んで、数ヶ月を経てやっと順番が回ってきた。私にこの小説をすすめた人間は、ことあるごとにロバート・B.パーカーの小説に出てくる私立探偵への憧れを表明して憚らないある種のリスクテイカーなのだけど、彼本人とこの小説の主人公であるスペンサーにはほとんど共通点が認められなくて、人は自分が持たないものに憧れるのかもしれない、と陳腐なことを考えていた。気に入りの物の名前や服装の様式を逐一正確にフルネームで呼び、相手が知らなければ教え、聞いていないことまで説明するところは似ている。

以下ネタバレ含む

アメリカの文化や生活について語彙がほぼないのに、大衆小説だからか訳注がつかないので、アストゥリアスを読むときより頻繁に検索をした。ペニョワール、トップサイダー、シュラッグ、ブルーミングデイル…その他全てを調べるのは面倒だったので当たりのつくものに関しては雰囲気で読んだ。そもそもヤムルカは素直にユダヤ帽と言ってくれた方が親切では?などと内心イチャモンをつけながら読み進めたのだけど、おそらくこの流儀は、ハードボイルド小説に思い入れのある訳者や編集者には当然のものなのかもな、と途中で思い当たった。格好いいディテイルはそれそのものとして伝わるように商品名を使ったり、無理に訳さずカタカナで残したりする。ことによるとそれが邦訳されたハードボイルド小説の基本的なスタイルであるのかもしれない。本格推理小説における探偵の気取ったセリフや仕草について、翻訳されてもなおその探偵なりの流儀が残されるのと同じことが、たぶん、起きている。時々、ポアロの気取った口調や、京極堂(翻訳物じゃないが)の容赦ない語りに浸かってそれ以外読む気がしない時期があるけど、これで育った人が「あー無理、スペンサー/パーカーしか無理」となる時期があっても驚かない。強いキャラクターと安定した世界観がある。

フィクションであると同時に既に時代物でもあるので様々なこと(マイノリティの扱いなど)に自分で注釈を入れる必要があり、全く手放しに夢中になって読むことはできないのだけど、内容的に好きだったことはふたつあった。

ひとつは離婚した両親の間で諍いの駒に使われる15歳の少年の描写で、ネグレクトされて育った子供の投げやりさがリアルであったこと。ひとつひとつの発話や仕草に自己肯定感の低さが表されていて、観察の細やかさに惹き込まれた。その少年に対するスペンサーの態度が看板に違わず男前であるのもいいと思う。この小説は主にこの痩せっぽちの少年にスペンサーが英才教育を施す内容で、ちょっとしたLEONみがあるのでLEONが好きな人にはいいかもしれない。

ふたつめは、彼と懇意にしているホークが人を殺す人間であるということ。スペンサーはキャラクターとして魅力的なのだけど、ワンピースのルフィにも似て、このペースで自分のやり方に拘って厄介をかかえこんだり善い行いをしていたらまず生き残れないだろ、という弱さと危うさがある。それに引きかえホークは殺しておいた方がいい人間を余計な哲学を披瀝するでもなくサッと殺してくれるので、あーそれでスペンサーが生きてるのか、と合点がいった。持つべきものは自分とは違う価値観を持つ友人だ、いつだって。

雑なことを付け加えると、村上春樹を読みつつスライ・アンド・ザ・ファミリーストーンズってなんやねん、とか思っていた小6の私がこれを読んでいれば同じ種類のものと見做しかねない雰囲気が、この小説にはある。あるのだけど、文化的にはナマ度が高いので鼻につきづらいし、何よりあくまでも私立探偵物ではあるので、村上春樹アレルギーに対する迂遠な処方としてもいいように思う。さらに言えば村上春樹をなんとなく避けてて今更読めない大学二年生諸氏はこれに続けて春樹を読んで、「や、最初はチャンドラーとかパーカー読んでて。その流れで春樹も一通り読んだんだよね、最近」って言うといい。コレは使える…わたしは春樹も大体読んでしまってるからこんなにいい言い訳があるのに使う機会がないが…

そういうわけでアガサ・クリスティー文庫を買い漁った時期があるのと同じように、スペンサーシリーズもまとめて買うときが来る可能性はある。でもそういうのは大抵他のことがつらいときだし、いっそ夏の連休中にマラソンすると決めてしまった方がいいかもしれない、「自分がコントロールできる事柄がある場合は、それに基づいて必要な判断を下すのが、賢明な生き方だ」ってスペンサーも言ってたし。