チーズと塩と豆と

 

 

日本の女性作家4人が欧州の食を扱った短編を書き下ろしたアンソロジーを読んだ。

 

寄稿している作家陣のうち、独立した長編を買ったことがないのは井上荒野だけだったのだけど、その井上荒野『理由』がよかった。

 

主人公の30代女性が高校生だった時、当時50歳の教師と恋に落ちて卒業後結婚した、という今日の倫理観ではわりと受け入れ難い設定が活きていた。(一方私が卒業した高校には妻が元教え子の教師が複数人いて、歳の差を一旦置けば組み合わせとしてはよくある設定ともいう。)周囲からの理解や祝福を望むべくもない選択と、その先に続く二人の孤独、先に生まれたものが先に老いる自然の成り行き。自分が望み、結果得たものにはどんな理由があっただろうか。

どんな夜になっても楽しかった。私たちは、私とカルロが存在する世界のすべてを愛していたし、あるいは私たち以外のすべてのことから免れていたとも言える。

これはクラブのシーン、年上の夫カルロがわざと離れたところにいて、ダンスフロアでひとり踊る主人公にどんな男が寄ってくるかを試してみる "遊び" について書いてある続きの部分だ。カルロは声をかけてきた男に親子だと言って困惑させたり、一緒に楽しくお酒を飲んだりする。それに対する主人公の感想がこうだった。

誰かと二人でいるというのはまさにこういうことだ。"私たち" ではないことを見つけることは難しくなる。"私たち" のいる世界に対して包括的に同意しているから、そこに在る事物を"私たち" にとっての在り様として受け入れてしまえる。そのように世界に疑いを挟まずにいられることの、ごくごくありふれた安心を思い出した。他の開闢を拒む穏やかな絶望も。

引用が過去形であることから推察される通り、この小説にはその調和ある世界のある面での崩壊が描かれている。一度二人でいることにした世界から一人が失われんとするとき、どれくらい致死的な風穴が開くかについて、有り体な言い方をすれば世界がどのように色褪せるかについて、あるいはそれでもなお残る堅牢で暖かな廃墟について、読むことができた。親しく嬉しく読みながら、私もいつだって自分で杭を立てられるようにしておかなければと考えていた。