ヌヌ 完璧なベビーシッター

 

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)

 

 

もう少し事件の真相をよく知りたい、という後味は残るけど、読んでよかったなと思う作品だった。わたしは大学で曲がりなりにもフランス語やフランスという国について学んでいたので、ここに描かれている経済格差や移民の問題、バカンスやパーティーの習慣や子供達の教育についてなど、背景として理解していることが多少あり、そのせいで主人公である通いのベビーシッターが、勤め先である中流家庭で面倒を見ていた2人の子供たちを殺す(冒頭が殺人の現場なのでネタバレではないです、ご安心を)にいたる心理描写に集中できるところがあったかもしれない。

 

集中したところで理解はしがたいのだけれど、主人公の性質として描かれる、勤め先の家庭に受け入れられること以外の全てをどうでもよいと思える踏み込みの良さとか、ここで捨てられたら後がないという強い思い込みとか、気性としては共感できてしまうところはいくつかあって、この小説においてはその彼女が思い詰め、妄想にすら囚われて子供を殺してしまうのでわたしとしてはかなり居心地が悪かった。

 

一体いつなら引き返せただろう、どのタイミングであれば雇主の夫婦はこの状況を避けられたのだろう、ということを考えずにはいられない。Point of No Returnというオペラ座の怪人の曲があるけれど、そのような結末が決まってしまう、来た道を戻れなくなる瞬間を渦中にあって捕まえることは殆どの場合において困難だ。過ぎてから、あのときああしていたら違っただろうかと思ってばかりいる。"そちらに行ったら危ない、嫌な予感がする"と警告音が鳴っているのに、ハンドルを取り戻せないまま深刻な結末に回収されてしまう人間関係と人間心理が、語られていることと語られていないことの双方によって浮かび上がってくる作品だった。

 

余談だがこの小説はフランスのゴンクール賞を受賞していて、わたしはこの賞をとっている作品の邦訳を読んで失敗したと思ったことが今のところないので、時々受賞作のリストを見ては未読のものを選んで買うなどしている。最近友人があるメディアの必読書リストについて、邦訳が出ているものを端からひとつずつ読んでいると言っていて、あんまり泥臭くイモ臭いやり方に思わず笑ってしまったのだけど、そういう網羅的な知識欲、"わかっている状態" への強迫観念じみた憧れのことを、私は全く笑えないんだよなあと内心思った。シェイクスピアドストエフスキー、ソローキンやジョイスの代表作を順に読むことで泳げるようになる気がしている豊穣な教養のプールを、私ももう少しの間諦めずにいたい。