ニシノユキヒコの恋と冒険

 

ニシノユキヒコの恋と冒険 (新潮文庫)

ニシノユキヒコの恋と冒険 (新潮文庫)

 

 

映画の予告編を見たとき、興味があったのに結局小説も読まず映画も観ずだったのを思い出して買った。

 

若いときならニシノユキヒコがもう少し素敵に見えただろうな。彼自身にまつわる描写だけなら、およそ普通には出会わない種類の人みたいに見えるのだけど、恋愛の機微としては、そういうことがありますねとしか言いようのないことが連なっていく。

 

終始色恋の話なので自分の色恋のことを思い出しながら読んだのだけど、その思い出した思い出たちのおかげさまを持って、私にはもう誰かに別れ話を切り出してあげるだけの余力がなくなっていることも自然連想した。次に付き合う相手には、「もし二人のために、あるいはどちらか一方のために別れた方がいいと分かっていても、私はあなたがちょうどよく飲みくだせるような別れ話を構成してお伝えしたり、あらゆる語彙を総動員して悪し様にののしったり、一言告げて連絡を絶ったり、そういうことがもうできないです。そのことを最初に了承してもらえますか」と告げなくてはならないなと思っている。もし今の私がニシノさんと親しくなることがあったら、彼みたいな、いつもいいように、振られるべきときに振られている人にとっては、いいように、振るべきときに振ってくれない意地悪な人間になってしまうだろうな、と思う。もし出会うことがあっても、なけなしの良心をカラカラと振って付き合いはしないだろうけど、女の人たちの前に表れるようなニシノさんの一面を、哀れんだり赦したり傷つけたり愛したりするのはずいぶん楽しそうだなと羨ましく感じる。全くの無視はできないにしても、あまりひどい目にあわせずに済ませたい、今なら加減ができるかな、舐めてるせいで結局私が痛い目を見るならその方がいいな、という気持ち。ニシノユキヒコが架空の人物でよかったな、というのが陳腐だけれど正直なところかもしれないな。

 

一番ネタバレらしいことを書くと、姉を異性として好きだったすべての弟がニシノさんみたいになるわけじゃない。なんというか、その個別性から目を離したくないと感じた。ニシノさんにとって、姉への愛着、姉の喪失はある面において決定的なことだったけど、結果的に彼があのような人生を歩んだことは、決して当然の帰結とは言えない。(当然の帰結で全てが済んでしまうような人生はひとつもないというのが私の考えだ、もちろん)その一番苦しいことが起こってしまったあとも、彼の人生は続いて、何人もの女の人に出会うことになる。その選択の恣意性、唯一性が、この小説に出てくる中で一番揺らぎの少ない構造的な悲劇=姉の死に、小説を支配させない鍵だと思う。ニシノさんの姉は作中何度か、直接に、間接に登場するけれど、それらはあくまでもニシノさんがそのとき親しくしている語り手の女性にとってのニシノさんの姉として扱われる。この、悲劇すら突き放せる視点の遠さが、それらの視点がニシノさんが生き残ったことによって発生したものであるという事後性が、この小説全体の軽妙さを、透明に支えている。