対岸の彼女

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

これもお正月に買って積んだもの。大昔、この作家を友人に勧められたのを思い出して1行も読まずにamazonに運ばせた。

結果的には私が今必要としていた種類の小説で、半年近くズルズルと寝かせていただけなのに、今読んだことが正解のような気がする。

 

以下ネタバレ

 

この作品に登場する2人の女子高校生が、しばしの別離を経て再会した川辺のシーンの引用をします。

 

"「ねえ、川が空みたいだと思わない?足元に空が流れている感じがして、ここでずっと川を見下ろしていると、空に立ってるみたいな、自分がどこにいるのかわからなくなるような感じ、してくるでしょ」

ナナコが言い、葵はどこか必死になって川を凝視する。ナナコの言う「感じ」を、ぴったり同じように味わうために。「ほんとだね」葵は言った。川幅の空はするすると流れ、足元が数センチ浮き上がったような、不思議な浮遊感がたしかにあった。"

 

これはいわゆる共感で済まされるようなものでも、分かるように解釈した末の理解でもないということがよくわかる。即時の追体験をしたい、同じ心の震えを味わいたいと願うひたむきな気持ちを、私は知っている。もしくは、感じたことをそのように「ほんとだね」とぴったりに受け取ってもらえることの奇跡も。

でも、この小説はこのあと30ページもしないで"葵のなかで、親しくなることは加算ではなく喪失だった。"と言ってのける。事実はいやだな、羨むこともできない、と私は思う。

 

辺縁にちりちりと光の粒が弾けていて、グレーにぼやけてる空洞に、腕を入れてもなにもない。だけど他の光や他の水は入らなくて、乾いた空気があって、ホロホロ落ちるような土の壁に行き当たる。

ここにあった光や水や緑のことを私は覚えてるけど、でも今この空洞にあるわけじゃない。

内壁は脆そうなのに、外殻は決まった形をしていて、私がどんなにドロドロになっても、いつも同じ形の洞がある。私が無くなったら、ドーナツの輪みたいに無くなるのかもしれない、そうだったらいい、私がいるかぎりあるものだったらいい。