ヘッドフォンに耳澄ます
今音楽を久しぶりにPCからつないだヘッドフォンで聞いてるんですけどたまにこういうことをすると果たして普段歩きながらairpodsで聞いてるのは聞いてると言えるのかという根源的な疑問が浮かびそうになりよくない。実際には遮音性のあるちゃんとしたイヤホンで音楽聞いてると注意が全部そっちに行ってしまいなんにもできなくなってしまうんだから。生活するためには豊かな響きにさよならを告げなければいけない。
最近は何度でも人間性の限界に打ちのめされていて、自分が尽くしたい礼儀すら怠惰のために尽くしきれなかったり、期待をしないようにしようと思うあまり他者に対する短所の見切りがどんどん早くなったり、それを淡々と受け入れる自分の心があったりする。他者に対する感情が、愛にせよ怒りにせよ有限だと思い知らされている。
今だって毎日、毎日身を浸している痛みは、どんどん感覚だけになって、詳細が抜け落ちて、その感覚もどんどん観念的になっていく。意味も暮らしもなくても生きようと思ってるのに、かけがえのない痛みすら時間が奪う、そうしたら本当に暇になってしまう。今度は今の痛みじゃなくて、大切な時間の大切な思い出のことを折々喚び起こしては生きるのかもしれない、と思う。現実には全部昨年の色がついている。見たくない現実は直接触らないからかもしれない、でもわざわざどうしようもない情動で一日をぐちゃぐちゃにしたくない。
内心がそんな風なのに他者には尊敬をしたいし、慰めたいし、許したいし甘えたいと思っていて、調整が可能だろうか、結局はハリボテになるのではと思いつつも、何事も大路を走らばなので人間らしいふるまいを心がけています。人間のように歩けば人間になれるでしょう。
ないものをねだっているというより今を生きるために今はない時間のことを何よりも大事にしていて、現状そうでないと人間性も感受性も私ではなくなってしまうので仕方ないのですが、表層は違っても私の心にとって同じ意味あいの許しを、きっといつかまた見つけるんだろうと思っている。私の努力によってではなく、主には時間の経過によって。あるいは私がそれを欲しいと心から願っているので。
先人によれば諸行が無常らしい、そのことがこんなに救いになるなんてね。