長いお別れ

 

 

  2014年に日本でドラマ化されたものを何回分か見て、アイリーン役の小雪が美しく、大友良英が手がけた音楽が素晴らしかったのが印象に残っていた。その頃、父の友人に「レイモンド・チャンドラーの長いお別れが原作でね」とドラマのことを話したら「原作は読んだの?」と聞かれ「読んでないよ」と返事をしたら、「読んでないのか」と笑われたのを根に持っていて、今頃になって読んだ。

 

※以下小説の内容に触れています

 

 

 話の筋に対して私が思うことは単にアイリーンが男に捨てられて不憫だということだけだ。捨てられなければ殺さなかったと思う。

 推理小説としての複雑な構成は確かに重厚で読み応えがあった。でも一方で、多くの推理小説がそうであるように、登場人物の魅力が作品を読み進める目を疲れさせない一面もある。主人公フィリップ・マーロウや警部オールズが持ち合わせている、自分のケツを自分で持つタフさは、格好がいい。それを直接に説明しないで読者に解らせるように話を運ぶチャンドラーの態度と、二重写しになっているように思った。マーロウについて言えば、損得勘定をしない、したくないことはしないナイーヴさも、人を惹きつける要素なんだろうなと思う。これは最近の私の趣味ではないけど仕方がない、少年漫画の主人公はたいていそうだから。

 レイモンド・チャンドラーの作品はいくつかが映画化されているそうで、それらを見てみたいように思う。ハンフリー・ボガードが主演したのもあるそうだ。

 

 フィリップ・マーロウは職業的にも経済的にも成功していない。でも異性にモテていて、そのことで何かと他の男性から妬まれている。その設定が持つ、マーロウの魅力を伝える仕掛けのひとつとしての効果を作者が疑った痕跡はない。男性視点なので、女性についてはどの程度美しく、どの程度貞淑で、どのような魅力があるかということがわかるが、男性についてはそれがあまりわからない。男性が美しい女性を口説きたいしあわよくばモノにしたいことについては特段説明がなくて、その時代に支配的だった価値観においては当たり前だったのだろうと思う。

 そういう、男性の欲望の均一性みたいなものが前提されていて、ハードボイルドの私立探偵ものとかいう自由を愛する人しか読まなそうなものを読んでさえ、古典を読むときには常に必要になる時代背景の理解が既に必須なんだなと少し寂しくなった。

 

 古典を読むのはたいていの場合少し寂しい。常識が違い、差別が当然に存在し、人権があったりなかったりする、遠く隔たったいつかの世界にも、このように美しい情景が、深い思索が、心に残る物語が、確かに存在したらしい、そのことを、翻訳や自ら学んだ知識を通して、辿る行い。読む価値がないことは滅多にないのに、絶対に自分一人の腕では届かない距離を何代もの人々の手を経て届けられるせいで、感触が遠いのだ。そのように古典が残され伝えられること自体の素晴らしさは重々承知しているし、まさに恩恵に浴しているひとりなのだけど、そのことと、本自体を新品で買ってもなお自分のものという感触が薄い、あの独特の寂しさを感じることとは、矛盾しないと思う。

 古典を読むのはその寂しさと付き合うことだ。