書楼弔堂

 

文庫版 書楼弔堂 破曉 (集英社文庫)

文庫版 書楼弔堂 破曉 (集英社文庫)

 

 

 

文庫版 書楼弔堂 炎昼 (集英社文庫)

文庫版 書楼弔堂 炎昼 (集英社文庫)

 

 

短絡か野暮か、夏だからという理由で京極夏彦を読んでいた。時は明治20年代、とある風変わりな書店を日本近代史に名を残す作家や学者が訪れて、悩み事を店主に相談したり、結果何かを悟ったりする話。2冊で12篇あった。夕刻と深夜のあと2巻を加えると、半刻ずつ1日分24篇になる。それで完結になったらいいのになと思うけど、最近はすばるにも載っていないらしくて気を長く持たなければいけない。

来客の正体をどこかの時点で察する、あるいは確信しながら読み進めるのがこの半歴史物娯楽小説の大きな愉しみであると思うので、個別の客の名前をここでは出さない。ただ、私がさまざまな作品でその人について読むたび、なんて悲しい一生だろうと感傷が尾を引く人物も登場したので、その人に向けて店主が言ったセリフを引いておく。

「刀で斬れば何故死ぬのか。頸を絞めれば何故死ぬのか。それをあなたは知るべきです。そうすれば、自分が何をしたのかがお判りになる筈です。凡ては—そこから」

「そこから」

「それを知れば、あなたは自分が生きていることを確認出来る筈。生きているなら為すべきことも自ずと知れるでしょう。あなたの人生は、そこから始まるのです」

ここを読んだときにはもうこの作品世界の理屈が目に馴染んでしまっていて、常世に魂も魄も留めおいて生きる、ただ在り続けることが、如何に肯定されるに値するかは身に染みていた。なにしろ毎話毎話店主がよくわかるようなわからないような問答を仕掛け理屈をこねくりまわした挙句に「生きてたら大丈夫」に持っていくから。なんとしてでもそうするべきなんだなと判る。

そのせいかこのエピソードにおいては自傷する人としての私が援けられたように思う。生を受け入れるためにこれだけの時間と言葉を費やしてもいい、それは大袈裟じゃない、必要なことだということが、印刷してある文字数分感じられる。あなたが既に十数年だか何十年だか生きて、ここに辿り着いてしまった、そのこと自体を問題にしない程度には、この書楼の扉と天窓は強くて優しい。煩い外光を遮り、眼が慣れた者には見るべきものを見せる。その者がどのようにか傷つき、何をか、罪なり迷いなりを抱えていたとしても。

この小説は、もちろん迷える客が自分が生きていくために探している何か(一冊)を見つける話ではある。そうであると同時に、自分以外の誰かに生きていて欲しいために差し出され尽くされる手の、欲の、願いの、話でもあるのだ。(個人の生という枠組みで捉える限りは)いつか潰えることが確定している望みを、それでも抱いてしまうことが切ない。

 

p.s.半ネタバレ

特に破暁はFGOやら刀剣やら、ジャンル問わず幕末明治班の皆さんでまだの方いたらぜひのやつです、お願いします