20190210 劇団シタチノ旗揚げ公演 「あの頃私は、スマートだった。」

原美術館を見終わったあと大崎方面へ歩いて早い夕食を摂った。大崎のアロハテーブルはお兄さんがフレンドリーで、名古屋から来ていると言ったら「ウチは名古屋のチェーンなんですよー!」と教えてくれた。「そう、なんかもう疲れてたので、あ、アロハテーブルあるやん…と思って入りました。なにも東京で入んなくてもいいのだけど…」とか失礼なこと言ったのに笑ってくれていい人、ありがとう。

シアターヘリコプターは雰囲気のある建物だった。コートと荷物を預けたけどクローク係のお兄さんも役者さんなんだろうか。かっこよかったな…(そういうことも言うブログです、よろしくお願いします)

整理番号を渡してもらって呼ばれて入ったものの、演劇は観つけないのでどこが良い席かわからなかった。もともと音楽の小西遼からこの公演のことを知ったのでなんとなくスピーカーの向き的に聞きやすそうなところに座った。(上手中段のやや見切れ席)

SEは少し懐かしい洋楽のヒットチューンが流れていて、私はCarly Rae JepsenのCall Me Maybeが好きだったけどお客さんもそれぞれ好きだった曲を懐かしく思い出しているようだった。

1ベルがあって本ベルはなかったのかな、真っ暗になって次に明るくなった時にはキャストが舞台上にいた。

《以下ネタバレ》

内容的には夢叶って就いたホテルの披露宴会場という職場がブラックだったために主人公の女性が疲弊し弱っていって、トラブル、失意の休職、失恋、インターネット上で恋愛妄想を配信するのにハマり自堕落に暮らしていたところへ映画監督志望の元彼が戻ってきて彼女のことを撮った映画が映画祭で上映されることを話す、職場もなんとなくホワイト寄りになる、ヨリを戻す、復職

みたいな流れなんですが披露宴会場という職場のディテイルがかなりしっかりしていて面白かった。予約と予約の間の転換のことをどんでんと呼ぶこと、CAの余興、乾杯酒の指定、そういった詳細が脚本を支えるんだなあと思った。脚本家さんやその周りの人でそれに類するところで働いてる人がいるのかな。取材だけだとしたらスキルってまさにこういうことを言うんだなと思う。忙しく立ち働くスタッフたちの動きで転換しつつタイトルを影絵で出してた(たぶん)のエンタメっぽくて格好良かった。

役者陣だと私が特に好きだったのは主人公の同僚(パートの部下)を演じた綾津ユリさんで、ヲサダコージさんとのやりとりなんか後半になるともう話し出しただけでちょっと面白かった。でもみなさんそれぞれに味があって見せ場があって、終始活き活きとしてらしたと思う。

妄想と現実がとっさに区別がつかないようになのか主人公のアパートの鍵がよく開いていて、色々な人が勝手に入ってくる。今時実際にはそういうことがあまりないと思うので意味深で気になっていたら、最後は恋人が合鍵使って入っていたので整合性を感じた。机の上にわざわざ置いてるな、と思っていた手鏡が場面のオチとしてちゃんと役立ったときや、最初全部茶色いな、と思っていた部屋に散乱するゴミが、回想を経て主人公の荒廃していく精神と重ねられ再び室内に投げ落とされた時、脚本と演出って本当に神なんだな、と思った。そのゴミを主人公が恋人と一緒に片付けること、シンプルな比喩はこんなにも頭に残るんだなと3週間以上経った今思う。液体なしにシャンパンに"溺れて沈む"ことができるの、発想も動作もなんて自由なんだろう、すごいね。普段見ないせいか、舞台の舞台性のようなものに簡単に興奮してしまう。

お話のことでいうと、不器用だけどちゃっかりしているバイトの女の子が、罰せられるのではなく想い人を射止めて(文字どおり狩りに成功して)楽しそうにしていたのがよかった。ああいう女が調子に乗っていく世界の方が結果的にみんな生きやすいと思うので。

正直にいって主人公の女性については彼女のような根性や生真面目さ、迷いのなさと縁遠い人生だから共感はゼロだし、幼馴染と付き合ってたのにちょっと仕事でつまづいて休職してメンタルがアレになったらすかさずフェードアウトされるの、それ本当に幼馴染か?薄情では?という疑問が抑えきれないし、それはいいにしても一番しんどい時に離れていったくせに自分がうまく行ったら「お前の映画つくった!😊」「実はネットの友達も俺!」とか言ってくるナルエゴ野郎とそんなススッとヨリ戻せるか?と言われるとわたしのような疑り深い女には到底無理で、もちろん彼が映画作ってるのを間接的にでも知っていればそれ自体が形而上的な励みになるとは思うのだけど、生活の実感として腑には落ちない。精神的にしんどくて生活リズムが乱れているようなときに必要なのは日々の承認と癒しで、彼女にそれを部分的にでも与えたのはネットの配信であったと思う。つまりスマートな時代だったから死なずに済んだんだと思うのだけど、作中でそういったバーチャルなつながり(ご存知のように、インターネットの向こうには人間がいる)は肯定的に描かれているようには見えず、彼女はルンバ買えたって戻ってきたリアル恋人のことをとても嬉しそうに受け入れていたので、インターネットキッズとしては少し寂しい気持ちがした。インターネットは本当に虚しいだろうか、わたしにはインターネットがなければ出会わなかった、親しくならなかったであろう友人が幾人もいる。インターネットでしか知り合いではないけど、日々の承認を扶けてくれる人もいる。

でも最後の場面、ルンバを介してのやりとりは本当に上手で、きちんと一つのセレモニーとして機能していた。身長差あるカップルでかわいかったな。言うのも野暮かもしれないが、ルンバはスマート家電の一般家庭進出におけるパイオニアであって、そういったキーワードでいちいち脳がかき混ぜられるようになっていると思う。

終盤だともうひとつ個人的なハイライトがあって、役者志望の青年がホテルの裏口のようなところから電話をかけてくるとき、会場の出入口を使ったのがとても印象的だった。あの青年はバックヤードから電話かけるのがとても似合う、ネトフリの火花で芸人さんたちが連絡を取るのもいつもケータイで、そのイメージと少し重なる。なんでだか天気が少し悪いといいと思ったけど、あのシーンはいい話だから晴れのイメージかな。

音楽は正直に言ってあれが狙った音響効果であったかどうか確信がないところもあるのだけど、既存の曲と、この演劇のためのピースの組み合わせに神経を使ってあるのがよくわかった。転換時の短いトラックが余韻になり予感になり、常に効力があってよかった。劇団に音楽家を抱えるのが普通のことなのかは知らないけれど、洋服と同じでサイズの合う音楽が付いてると、見る方は楽だなと感じる。最後パッヘルベルのカノンをドーンのやつ劇のイメージにぴったりで好きだった。ファレルのHappy、曲というよりあのアルバムが好きで随分聞いたのでここへ来て違う思い出ができるとは思っていなかった、ちょっとしたトラウマ。

この日は日中沈丁花のつぼみが赤くなっているのを見たのに夜は雪が舞って、いかにも早春のよい日だった。今この瞬間にも芽吹こうとするこれからのこと、あまり邪険にしすぎてもよくないだろうなと思う。