1+1=11

「1+1=11」イチタスイチハイチイチ、という映画を見てきた。
大須シアターカフェ、夏にみゆきちゃんの映画を見たのと同じところ。

映画はキャストが沢山で私はその見分けすらおぼつかないので内容の説明はできないけど、監督が「川のそばに住む人々の、一日の時間の流れ、川のこちらがわとむこうがわ」とおっしゃっていた、と思う。

少し具体的に言うと、松林麗さん演じる女性がマンションから飛び降りて自殺した、そのことに関連のあるシーンで構成されているのですが、登場する23名+αの人々の生活/人生のごくごく一部、そのディテイルを見られる映画です。

2012年に公開、撮影は2011年の11月頃だと聞いて、めまいがした。震災があったのが同じ年の3月で、そのスピードで、こんな風に自分の中にあの体験を落とし込める人たちが、世の中には存在していたんだな、すさまじいなと思う。あのとき、とにかくおびただしい数の人間が死んで、その死んだ人間ひとりひとりに人生があって生活があって顔があったということを、うまく考えられなかった。受け容れられなかったと思う。その取り返しのつかなさや、無意味さ、喪失の規模、それに含まれている個別具体的な人間の顔を思ったとき、考えが止まらずに済むようになったのはここ2年位のことだ。前は東日本大震災に関連することを考えると思考にサッと影が差して、感情も問題もものすごく見え辛くなるような感じがしていた。

死ぬときにパラパラ漫画を見る話、最近走馬灯の編集に凝ってる私にはだいぶタイムリーだった。映画の終盤、キャストのみなさんの写真が、各々の人生を遡るように現在→過去の順番でめくられるシーンがあるのだけど、途中で音楽が終わって、それでも写真がめくられるシーンが続くところがよかった、意味はわからないけど、ただ在るっていうことが露わになる感覚を綺麗に見せてもらった。手品みたい。

一方で他人にとってはもちろん、未来の自分にとってすらせいぜいハイライトを拾って思い出すような生活であっても、今この瞬間の私がひとつひとつのディテイルを生きることを放棄できないことも思い知らされて本当につらい、やめてほしい。私は次の一日を生きることを省略できない。それで、たぶん私の友人の人生も、全然知らない人の人生も、その省略できない一瞬の積み重ねなのだと思う。

私に関して言えば最近はほんとうになんにも考えていなくて、あるいは一つの時間のことしか考えられなくて、生活の全部がそのためにあるような有様だ。圧倒的な上の空のせいか目の前にあることはどんどん鮮やかになって、その瞬間は世界がそれだけでできているような気がする。初対面の人の顔を見た時や、知らない花の写真を撮る時、知人の人格に感動する時、逆光のオオシマザクラの向こうにはっきりと黒い電線を見る時、今これがあって、世界にはこれしかないなと思う。

そうやって次から次へいろんなものを見ては、自分を持て余している。目に焼き付けたものは全部私で行き止まりで、流れ着いたもののコレクションをほんとうに見せてあげたい人間が、今の私にはいないから。見たがってくれる友人たちがいなかったら、すぐに破裂してしまうだろうな。

私は今日もそのように、無い未来を思ってバースデーケーキのローソクを歳の数だけ灯すような、あるいは確かにあった過去を思って焼いた骨を一つ一つ拾うような、祈りに浸(ひた)された時間の中を泳いで、ゼリーみたいなひとかたまりの現在を渡ったし、明日もきっとそのように過ごすのだと思う。

バンドマンの男の人が、家に泊めた女の子の名前がわからなくて、あてずっぽうで答えるんだけど全然当たらなくて、なのに二人とも楽しそうだったのがよかったな、名前がわからなくても、ちゃんと楽しいのがいい