敗戦日記

 

 

昭和一桁生まれの知人に若いころ何を読んでいたかと聞いたら、ドストエフスキーなどの海外の作家、日本だと白樺派高見順を読んでいた時もありました。と言われて全く知らなかったので読んだ。

感情の激するポイントが生々しく、昔々あるところに、というような穏やかな心持ちでは読めなかった。私自身の鬱々とした気分、貧しさ、浅ましさ、そういうものを、終戦の年の高見順の記述に、重ねて読まないではいられなかった。

ちょうど1945年一年分の日記が収められているので、読んでいる途中で8月22日、23日と、76年前の今日を追い越す瞬間があったのだけど、今頃は新聞が戦争終結を敗戦というようになって、広島長崎の被害が詳報されて、高見順は日本文学報国会へお給金をもらいに行ったり、島木健作の葬儀に参列したりしていたらしい。作中では筆者の直接の知人がバタバタ死ぬし、悲惨であったり醜悪であったりする報せが次々入るのだけど、訃報を悲しむことはあっても、悪い知らせにいちいち全力で驚いたり怒ったりするのはもはや難しい、という様子で、人間が弱らされている、と思う。

世の中が自分にとって生きにくいとき、どうしても売り飛ばさずに守るべきはなにか、どのようにして守るのか、いつでも考えておかなければならない。

全然知らないでいたが著書を見ると色恋のことも書く人らしく、後年愛人との間に子を設けて、死の間際に養子に入れたりもしているので、ロクでもない小説があるならそれも読んでみたいなあと思う。うまく羽化できなかった蝉を拾ってやるところが優しかった。