プラットフォーム

 

プラットフォーム (河出文庫)

プラットフォーム (河出文庫)

 

 

買ったのは服従を読んだ頃だけどかなり後回しになっていた。服従における女性の扱われ方が不愉快なもので、疲れたからだ。それをそのように書けるということがウエルベックの優れた点であったとしても、読む女が疲れることに変わりはない。

同じ観点からすれば本作もかなり不愉快ではある。ただ、多分に強調されているにしても、性、ツーリズムとエキゾチシズムに関して、この作品に書かれているような "西側諸国" と "第三世界" の関係はあるのだろうし、書かれないよりは書かれた方がいいと思う。

かなりの数の "典型的" な人物像が散見される。フランス文化庁に勤めるつまらない四十男の主人公、有能な女、インテリ、中産階級、ドイツ人、アメリカ人、エジプト人、金持ち、娼婦。様々なステレオティップが描かれるが、それらについて、そうじゃない人もいる、様々な人がいる、という指摘をすることに、私はあまり意味を見出せない。個人は全く多様だが、全体から分類する限りにおいて、どこかには振り分けられうるんだろう。ウエルベックがそう思ってそうだから今そう言ってみて思ったのけど、自分が "黒髪に黄色い肌、彼女である必要はないが誰かがやらざるを得ないお役所仕事をそれなりにこなし、なんとかかんとか、それほど若くはない" みたいな女であることは本来的には気持ちが良いことだなと感じる。私は江國香織の小説には絶対に出てこないが、ウエルベックの小説にならあるいは登場するかもしれない。

この小説は、セックスの話のように見えるし、実際のところ性的な描写は多いのだけれど、私はセックスと金(資本主義経済)の関係性の話として読んだ。もしほんとうに、欧米各国のそこそこお金持ちの男性が、タイをはじめとする東南アジア人の女性の従順さや身体的魅力のために彼女たちを選び、彼女たちが経済的な安定や "西側諸国" 標準の文化・暮らしなどのために彼らを選んでいると言えるとして、その構造にどんな問題があるか、というのはかなり難しい問いだと思う。(確かに私の数少ない外国人の知人の中にも、年配の "西側諸国" 男性と 年若い "第三世界" 女性の夫婦がいる。)

いずれにしてもこの作品が書かれてから20年が経っているので多かれ少なかれ状況は変化していると思うが、私には、"西側諸国" の皆さんが考える差別や搾取の枠組について、その発想そのものが特権的に見えるときがある。そういった類の傲慢さを明確に自覚して書き表すと、おそらくウエルベックみたいな物の言い方になるんじゃないかと感じた。

私がすぐに思いつくのは、ライシテの問題だ。フランスにおける政教分離の原則のことで、この原則に基づいて公共的な空間においては宗教的なしるしを身につけることが禁止されている。具体的にはムスリマの生徒はヒジャブを公立の学校で着用しない、などの対応になっているのだけど、形式上仏教徒の私がファッションや防寒のために髪と肌を隠すようにスカーフを巻いて登校するのはいいのかな?と思う。あるいはTシャツを自分の信じる神の与えたもうた聖衣だと信じていたらTシャツを着てはいけないことになるのでは?と。ヒジャブ以外のもう少し新しい例で気になるのはブルキニである。これはムスリマ向けのウエットスーツ型の水着のことなのだが、2019年時点でフランス国内の複数の公共プールで着用が禁止されている。これもライシテの考え方によるものなのだが、ブルキニそのものは別に宗教上伝統的に使用されてきた象徴的な装身具などではなくて、ムスリマが問題なく着られる水着として近年開発された商品なのだ。ムスリマであることが"推察される" 装いになることと、自身の信仰を声高に主張することの間にはかなりの隔たりがあるのではないだろうか。ブルキニを着用することがムスリマであることを示威する行為だと考えると、日焼けをしたくない・傷跡を晒したくないなどの理由で着用した場合には許可されるべきだ。だが、実際の運用は一律の着用禁止であり、そこには日本にいる私が机上で考えるのでは追いつかない、異質なものに対する恐怖、敵視が横たわっているのではないかと思う。ビキニは絶対に宗教的シンボルたりえないのだろうか。

文化盗用という概念における価値判断にも、イスラムに対する忌避感の鏡像を見るときがある。最も糾弾されやすいのは先住民族などマイノリティの文化による意匠を、現在のマジョリティである民族が用いるパターンのようで、私はその文化を用いることによってマジョリティだけがお金や名誉を儲けている場合に、その文化を育んだ人たちに何かが還流されるべきという考え方自体に反対するわけではない。だが、例えばの話、日本人デザイナーがタータンチェックを使っても怒られないし、和菓子屋が新商品としてガレットブルトンヌを売っても怒られないだろうな、という直観を私は疑えない。規模と程度の問題よりも、圧倒的に "西側諸国" の皆さんの「自分たちは奪い、盗み、搾取する強者だ」 という自覚、罪悪感、自惚れに拠るところが大きいように思うのだ。

観光というのは、物見遊山である以上、対象に対する「珍しい、面白い、我々と違う」といった、ときに不躾な興味を構造的に含むものだ。この作品では、主人公のパートナーが勤める旅行会社が売り出すパッケージツアーの内容が後半の大きな軸になっているが、結果的に観光するものと観光されるものの間にあるように見える一方的な上下関係が、本来的には双方向性を失い得ないものであることが示される。自分のことを常に "見る" 者だと思っていること、"搾取する" 側だと思っていること、その思い上がりについてどの深さで思い至ることができるか。感染病が流行るようになって以降、観光という産業にまつわるニュースに触れることが増えた。私が思い出したいと思っていなくても、度々この作品を思い出すことになるだろう、そのような予感がしている。

 

p.s.この小説のどこかにホームズのセリフの引用があって、私はそれを読みながらホームズだな、と思ったのだけど、そのセリフを聞いた登場人物もそれを聞いてホームズだな、と思ったという描写が続いて嬉しくなったような記憶がある。何ページだったか分からなくなってしまったので、もしわかる人がいたら教えてください。ほんとにおわり