好き好き大好き超愛してる。

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 

 

中盤、アダムとイヴのパートだけは既読感があって、以前に立ち読みしたもののその時は買わなかったのかもしれない。2004年の小説。長編としてまとめられているけど、いくつかの一見相互に関係のないパートを組み合わせて構成されている。

舞城王太郎の本は図書館で借りて読んだせいで手元には持っていなくて、初めて新品で買った。私はこの人の文章が好きで、この作品においても主人公の心情と語りが常に一致しているように感じられてずっと楽しかった。不安定な心情を冷静な筆致で述べ語ったり、穏やかな心持ちを読点もない長文で縷々捲し立てたりしない。心文一致体とでもいいたくなるような生々しさ、瑞々しさを保ったまま、どのパートも書き切られている。

主には女を失う男の話、小説と祈りと光と物語についてだった。多くの部分を占めるのは柿緒という恋人を骨肉腫で亡くした巧也という小説家が彼女のことを思い出し、考えているパートで、言いたいことを言い切ってみてはそうじゃないと打ち消し、仮定しては否定し、回想しては想像して延々続く。私には全く違和感がないけれど私以外の人もこれくらい脳内で喋るのかな、それなら安心なのにと思った。

大切な人の死に際して、その人が生きている間にできなかったことやしてしまったことについて後悔をしたり、自分を責めたりする人は多いと思う。この小説は別にヒューマンドラマじゃないし直接にはそういう人を救わないかもしれない。でも、死の始まりや受容について、いくつもの側面を同時に、繊細なダイヤのカットみたいに書いているから、 "こうでもあってああでもあって、同時にこのようでもあり一方でこうとも言える、でも必ずしもこうとは限らないのだ。" という並列と留保の連続のどこかに、自分の大切な人の喪失について、赦しの光を見る人がいるんじゃないかと思う。

 

好きだったところを二箇所引く。

一つ目は私がずっとやってるやつ。

前略)だって悲しくて辛いけど、だから嫌だとか思わないもん。どっか他んところで楽しいことやってたいとは思わないもん」

「恋愛ってもちろん呼んでいいんだよ」

「え?」

「これ。私らの。これ恋愛って呼ばなかったら、他に何て呼ぶの?これが恋愛じゃなかったとしたら、もう私何がそうなのかホント分かんないよ」

次に引くのは私が見た救いだ。

人の全身を包む炎を美しいと感じながらも美しいと思わないとき、美しいと感じることも美しいと思わないことも正しいのだ。

これは美と批評と倫理の話で、概念についてはこの前段を読んでくれればいいのだけど、このことをこう書いていいのは最高のことだと思って。書きたいことを、自分の思う一番美しいかたちで表していいんだって言ってもらったような気がした。火達磨になっている人間を美しいと感じることについては一切の言い訳をしなくても大丈夫、「感じる」と「思う」をなにかしらで括らなくてもきちんと通る、そういう、自由でのびのびとした表現と強い構造(読者を信頼しているからなのかこれでわからないならわからなくてよしと思われてるのかはわからない)を見てると息がしやすくなる。いつもより深い呼吸をして我が身を振り返れば、私が言葉で表した世界だって、どの瞬間も私のものなんだと気づく。到底全部は書ききれないし、宇宙が広いことは知っているけど、私が表した分は確かに私のものなんだよと思える。

 

余談なんだけどこの文庫本には大学読書人大賞受賞!の帯がついていて、裏面に立教大学文芸思想研究会推薦文なるものが引いてある。この推薦文を書いたひとにとっては "かいしんのいちげき" であろう文章で、よく読めば中身はあるんだかないんだかわからないのに舞城王太郎への愛がとにかくふるっているので見かけたら読んでみて欲しい。推しへの愛はこんな形でも書き表されるのだなあとしみじみ思った。