クローゼット

 

 

千早茜作家買いしている。

百貨店のカフェでバイトをしている、顔がよくてファッションが好きな青年が、衣服専門の美術館に出入りするようになる。強い情熱を持って収蔵品に関わっている人たちに出会い、自身の居場所を見つけ、洋服に対する思いを捉え直し、深めていく。もう一人の視点人物は美術館の修復士、纏子だ。彼女は、芳との出会いにより、自分の過去と向き合い始める。

一定程度の描写がなされる登場人物が、同作家の『ガーデン』や『男ともだち』より多く、作品が描き出す世界の分厚さを感じることができる。時間的にも、空間的にも。

どうしてそうなるかというと、この作品が扱っている題材が、ファッション、装い、という、イヴが知恵の実を嚥み下して以来人類に普遍の営みだからだと感じた。現代では服を着ない人間は少ない。

作中であまり付き合いやすいタイプの人間としては描かれていない学芸員高木の服装すら、その人間性の表現、いわば必然として丁寧に描写される。

髙木さんが作業台の方へつかつかと近づいてくる。赤いピンドットのシャツに大きな星のついたカーディガン、チェックのズボン。派手な色が目に飛び込んでくる。現代ファッション担当の髙木さんはいつも新進気鋭のデザイナーの服を着ている。柄物ばかりを合わせるので、陰で柄アフロと呼ばれている。

芳と纏子の出会いがひとつの縦軸ではあるのだけど、その物語の背骨を支えるコルセットのように、洋服にかける人々の思いが描かれている。価値ある洋服の修繕、保存、展示を行う場所を舞台としたお話でありながら、ファストファッションを全否定するわけでもなく、あらゆる装いに対する愛が溢れているように思った。人が装う行為、そのものの力を信じている人々がいた。

読み終わった今、タイトルのクローゼットは、柔らかな内面を守る安全な場所を想起させる。誰にでも公開できる自分ではなく、安心できる場所でだけ解き放つことのできる自分。その傷つきやすい、守られるべき存在を認め、その上で自分にとってのクローゼットと言える場所を少しずつ広くしていけたら、呼吸のしやすい世界を作れるのかもしれない。

たのしいムーミン一家

 

 

目覚めのシーンがとてもいい。このような目覚めを普通のことだと思って眠りにつけることが大切だと思う。

 

誰かのために何かをすることを、この物語に出てくる何人かのキャラクターは、当たり前だと思っている。最後にはとても美しい願い事も聞ける。

苦しい気持ちのとき、絵空事の物語でも、そうありたいような心の動きを読み取ることができれば、もう一度心ある自分を思い描ける。一匹の小さないきものにも、もしかしたらいつか誰かを助けてあげられる日が来るかもしれない。そうだったらいいのに、と思うことができる。春のために今眠ることを怖がらずに済む。

男ともだち

 

 

知らぬ間にほとんど自傷行為みたいな本を選んでいた、わざとではない。読んでるうちに自分の記憶が呼び覚まされて泣く、ということを繰り返して読み切ったので、"読んだことある状態"になっているかわからない。

主人公・神名は物語が始まる時29歳、京都に住む、美大出ではないイラストレーターで、学生時代仲の良かったサークルの先輩ハセオと、7年ぶりの再会を果たす。

神名の色恋に関する感覚は道徳からは外れているけど、私にとってはこっちでいいならこっちがいいよなと思うようなもので、私のなけなしの良心がはらむ欺瞞みたいなものを見透かされているように感じた。

かつてあんちゃんを失ったのに美穂みたいには器用でないので、読んでいる間ずっと苦しかったな。

千早茜の本、買うのに躊躇わないのだけど、冒頭に作者の気合が感じられるからだと思う。いつも最初の一行に吸い寄せられて買っている。

 

 

風雨

風雨に晒されたあと、やがて水分が失われて地面がひび割れるみたいに、植物の組織がスカスカの空洞になるみたいに、人間が脆くなっていく

もう腕も上がらないだろう

気を紛らわせるのにだって動機が必要で、理由が何もないのに手を動かそうとすると、ひどく痛む、何をしようとしているんだろう

祐介•字慰

 

 

装丁が寄藤文平で、私は『死にカタログ』が好きだったので嬉しかった。元はといえば千早茜の作品に尾崎世界観が解説を書いていたので、この人の作品も読もうと思って手に取ったのだけど、別ルートの芋づるもあったようだ。クリープハイプはさっきライブラリに追加した。

『祐介』はデビュー作だ。主人公は作者自身にかぶるところがあるのかなぁと思わせるバンドマンの設定なのだけど、クリープハイプが売れてるから読者としてはむしろ切り離して読めるように思う。尾崎世界観は挫折して音楽をやめたわけじゃない。

生きてるとあるような最悪の瞬間が丁寧に書いてあって、書く間こんな文章が書けるようになってしまった所以であるところの最悪を味わい直したんじゃないかと思って心配になった。

車内にはもう誰ひとりとして乗客は残っておらず、ふと足元を見るとポッカリ空いたとなりの席の下に、マヨネーズが付いて鈍い光を放つレタスの欠片が落ちている。

スーツのおっさんがまさぐっていたビニール袋のなかのサンドウィッチと、確かに耳元で聞いた、レタスの芯を噛み砕く大きな咀嚼音を思い出した。

不思議なのは、この主人公は話している相手のことや視界に入る景色のことはよくよく観察して言葉にするのに、自分の格好や欲望の話はあまりしないことだ。

バンドマンなら(クソデカ主語失礼)、 こだわらないならこだわらないなりに格好のことを考えたり、かつて考えていた自分のことを笑ったりするものではと思うけど、マーチンはおろかオールスターも出てこない。ぼろいVansでも履いているのか。

女と寝るのも、女が寝るつもりだとわかるから寝るだけで、その女がいいとか、好きとか、そういうことを思っているわけではない。ピンサロ嬢の瞳ちゃんのことが好きなのは、かわいくて、安心だからだ。何も搾取されないから、その部屋にいる間は安らげる。

バンドを始めたときはプロを目指していて、自分たちの音楽の可能性を信じていたことはかろうじてわかるのだけど、主人公はそれが潰えるのと同時に、狂気の底に沈んでいくように見えるし、その先にも人生があるなんて思ってもみないようだ。

まだ歌舞いている体にはとても見えないのだけど、高校を卒業してすぐ就職してすぐ辞めて、バンドが崩壊した時もこの人は20代だ。バンドをやめるバンドマンは星の数ほどいて、確かに一つの人生が終わるのかもしれない。でも、長くバイトをしていた職場で登用試験を受けるとか、学生の時に取ってた資格を使うとか、家業を継ぐとか、そんなちょうどいい進路がない場合にさえ彼らは別に死なない。死ねと思わないし、20代も後半になれば転職や結婚や離婚や出産で人間はクルクル転身するのが当たり前だと思う。

つまり、この主人公がここまでグシャグシャになるのは個人の性質によるものだ。バンドをやっている生活に思考や行動様式が依存していて、今底つき体験をしているのかもしれない。底につく瞬間まですごく無自覚で、ドラマ『コントが始まる』の三人みたいに10年やってダメなら諦める、と期限を切ったりもしていなくて、貧してるから鈍していて、この祐介というバンドマンは、底をつかないとバンドが辞められなかったのかもしれない。音楽はこのあとも辞められないのかもしれない。

半自伝的、と言うけれど実際の人生の中身の話をしているというより、世界がこう見える、自分がこうしているのが見える、その輪郭を拾っているように感じた。観察する距離の遠近に相関して、文章が青青しい部分と、高級な部分とあって、そのムラは、そのまま主人公の痙攣的な生活における視界のムラなのかなと思った。

書き下ろしの『字慰』は最高、ただただ気持ちいい。

緑衣の美少年

前作を読んだとき、続編も続きで買えと書いたのだけど、別にこれを読んでも特に何かが解決したりはしなかった、むしろ状況は深刻になり、物語は佳境に差し掛かっている。

この作品内のクライマックスで主人公瞳島眉美が直面するエモがすごくよかった。自分がいなくても世界は回ることについての安堵と寂しさが混じった感情、部活を引退した後とか仕事をやめた後に多くの人が味わうと思うのだけど、そのエッセンスだけが綺麗に抜書きされていた。純度は高めてあって、このレベルで体験する人は少ないかもしれないけれど、自分がさっきまでいた場所が眩しくて目を細めたことが、私にだってあったと思う。

次巻、いよいよ大きな敵の懐に飛び込むらしいので楽しみ。

アニメが放送されていて、各種配信サービスでも公開されているらしいので見ようと思う。何せ美声のナガヒロはツイステッドワンダーランドでジャック•ハウルの声を担当している坂泰斗だ。(さっき名前を調べたのだけど…)そして沃野禁止郎にはトレイ•クローバー担当の鈴木崚汰!ソシャゲの登場人物が多くてよかった。でもジャックもトレイもとても好きなキャラクターだから中の人の名前を覚えられてとても嬉しい。

不良少年とキリスト

 

評論集。九つ目次があって、織田作之助太宰治が亡くなった時にそれぞれ書いたものが含まれている。全ての作品が戦後すぐ、1946年〜1948年が初出だ。

座談会が2つ収められているのだけど、出てくる織田太宰平野謙といった面々がそれぞれに面白い。酒が入っているせいか与太話をくどくどするところも随分あり、太宰は特に甘えて駄々をこねているようなところがあって、微笑ましかった。

そうやって油断していると、

ぼくはね、今までひとの事を書けなかったんですよ。この頃すこうしね、他人を書けるようになったんですよ。ぼくと同じ位に慈しんでー慈しんでというのは口幅ったい。一生懸命やって書けるようになって、とても嬉しいんですよ。何か枠がすこうしね、また大きくなったなアなんと思って、すこうし他人を書けるようになったのですよ。

-『座談会 歓楽極まりて哀情多し』より

 

ということをしみじみと言い出したりする。("なんと思って"は原文ママ)太宰のこの発言に返事をしているのは安吾で、太宰が安吾にこういうことを言いたいと思ってることがかわいいよなあと思っていた。

この前段で"四十になったら"云々、と言っていた太宰は四十を見ずに死んで、そのあと安吾が太宰のことを書いた「不良少年とキリスト」からは、筆者の無念がしんしんと伝わってくる。

でも、そもそも自分の寿命があと数年だろうと思っているひとが、今日死ぬことを選ぶのは、あと何十年も生きると思っている場合に比べれば、大きな決断ではないだろうなと思う。戦時中には人間の命が虫けら同然に扱われて、この人たちはそれをまざまざと見た世代だ。太宰も体調がすぐれないときが多い生活をしていて、自分が長生きをしないだろうと予感していたら、死ぬときを自分で選びたいと、自分の思ったように死にたいと思うのも道理なように感じる。死んだら、あいつにもあのひとにも、去年死んだ織田作にも会えるのだし。この世が寂しくなる年齢が、今よりずっと早かったろうと思う。

安吾が太宰の晩年(作品でない)を評してフツカヨイ的と書いているのを見て、インターネットで自分や自分のメンヘラをコンテンツにしているうちに死んでしまったひとたちのことを思い出した。生前何をしたかはともかく、命の使い方に近しいところがあったかもしれないと思う。太宰の時代にインターネットがなくてよかった。ネットで適当に承認欲求を満たせなかった(半端に満たすせいで余計に乾くこともなかった)おかげで、小説を書いていてくれたような気がしてくる。酒と女と薬物で大変だったのは今と同じだけど。

坂口安吾自体は強靱で、ほかを読まねばならぬなあと思う。この本の中で言うとヤミ論語なんかは時事の色合いが濃く、今の感覚では受け入れ難いことも書いてあるのだけど、でも当時の情勢でこのようなことを書くのがどういうことか、に想像を巡らせるのは楽しい。

太宰のことばかり書いたけど安吾の書き方がいいからそうなる。逆に言うとこの本は安吾のファンだけでなくて太宰や織田作のファンにも読まれてきたのだろう。ひとつの時代を映している。